下下戦記
下下戦記は、吉田司が対象に粘り強く向き合ったノンフィクション作品。具体的な事実の積み重ねから、時代や社会の姿を浮かび上がらせる。
作品情報
下下戦記は、吉田司が対象に粘り強く向き合ったノンフィクション作品。
下下戦記は、吉田司が対象に粘り強く向き合ったノンフィクション作品。具体的な事実の積み重ねから、時代や社会の姿を浮かび上がらせる。
書籍情報
- 出版社
- 白水社
- 発売日
- 1987-12-01
- ページ数
- 412ページ
- 言語
- 日本語
- ISBN-13
- 9784560042588
- ISBN-10
- 4560042586
- 価格
- 1280 JPY
- カテゴリ
- 本/文学・評論
第19回(1988年) 大宅壮一ノンフィクション賞受賞
レビュー
-
まあ読んでみたまえ
吉田司氏はこれで大宅壮一ノンフィクションを受賞した、と帯にあります。 実質的なデビュー作であり、吉田氏のこの後の著述活動の原点なのでしょう。 とにかく圧倒されるのは、取材対象(といっていいものかどうか?)に対する没入の仕方が生半可ではありません。 若い患者の『運動』を支援するためとはいえ、地元の人間からもあらゆる偏見・貧乏という理由で忌み遠ざけられている患者達と正に全身全霊のやりとりを若き吉田氏は行っていきます。 同じ言葉を使い、同じ釜の飯を食い、自分の寝床を彼らに解放して・・・。 そうして聞き取った彼らの叫びは彼らの語った言葉のママ、訛りもどもりも全てそのまま記録されています。 だから最初は少し読みにくいかもしれません。 ただ水俣の若い患者が直接魂から雄叫びをあげているような臨場感があって、こんなモノを読んだことがありません。 患者の一人が恋人にふられた後で書いた直筆の手紙が、直筆のまま掲載されていますが、こんなに心が震えるような文章を人間がかけるのかと思います。 でも、ま、ぶっちゃけていうと、若い水俣病患者でも恋をする、ってのが一番の読ませどころですかね。 恋愛ドラマのさなかでは吉田氏は完全に狂言廻しの役目を引き受けております。ちょっとニヤリとするとこも多いですよ。 当時の吉田氏は・・・20代前半・・・! これほどまでに『書く』ことを宿命的に引き受けている人が多ければ、ジャーナリストとやらも少しは信頼できるのに。
-
水俣病の被害者の苦悩
今も裁判が続いている、水俣病の被害者の苦悩が、生き生きと描かれている傑作。 本の価格が、送料込みで2,214円と汚い古本にしては、高すぎるのが難点。
-
万人が等しく持つ、幸福追求権
文化施設や娯楽に乏しい田舎では、人々の楽しみといえば、自然の恵みをエンジョイすることと、恋愛やセックスである。 水俣の人々は有機水銀によって、それら二つの娯楽を追求するための環境と、肉体的能力を、著しく損なわれ、風評被害や差別にも苦しむはめになってしまった。水銀中毒に冒された人々は、すべて言語を絶する苦しみを味わったであろうが、中でも特に辛かったのは、身中に渦巻くエネルギーをもて余す、若い患者たちだったと思われる。 吉田司はよそ者である立場を逆に生かして、自宅を若い患者たちが集う場として解放し、惜しみなく彼らの支援に献身し、心血を注いだ。吉田の支えによって、人生に希望を持てなかった若い患者たちが、居場所を見つけ、前向きに生きる姿勢を取り戻すことができた。本書はその感動的な記録である。 患者だって恋したい! 患者だって幸せになりたい! 「患者」を「障害者」に置き換えてもいい。障害者の性を扱って話題となった、河合香織著『セックスボランティア』と併せて読むと、理解が深まるだろう。続編の『夜の食国』も秀逸である。
-
早すぎた傑作ルポタージュ
今年は水俣病の「公式確認」50年ということで、雑誌やテレビなどで幾つかの特集がやっていた。それらの特集で「現在の課題」として語られていたのが、「患者は保証金では救われない、社会参加と福祉をもっと考えていかねば」ということだった。私はそれを見て当惑してしまった。正直、「今さらそんなことが課題なの?」と途方に暮れてしまった。 なぜなら、「患者は保証金では救われない、社会参加と福祉をもっと考えていかねば」なんてことは、患者たちと著者が「下下戦記」(初出1980年)で既に繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し主張していたことだったからだ。 「下下戦記」は”異色”の水俣病ルポタージュとされている。その異色さは、「患者たちの生活を赤裸裸」に描いた点にあるとしばしば表現される。しかし私が表現するならば、「下下戦記」は患者たちを「聖なるもの」として描かず「俗なるもの(=わたしたちと余り変わらないもの)」として描いたという点にその”異色”さがある。そして、「俗なるもの」として描いた故に「患者は保証金では救われない、社会参加と福祉をもっと考えていかねば」という「当事者の叫び」が聴こえてくるのだ。 患者たちを「聖なるもの」として描かず「俗なるもの(=わたしたちと余り変わらないもの)」として描いたこの「下下戦記」のスタンスは、水俣病の必読文献として頻繁に挙げられる「苦海浄土」のスタンスとは正反対と言えるかもしれない。私は「苦海浄土」は水俣病を「文学化」することには成功していると思うけれども、患者たちを「聖なるもの」とみなすことにより「当事者の声」を美化し封じ込めた罪もまたあると思っている。 「下下戦記」は「水俣病患者の性」についても語られているためか、水俣病の必読文献として挙げられることは余りない。それは「性」を語ることがタブーであった1980-90年代では無理もないことだったかもしれないが、(例えば「障害者の性」の問題がタブーではなく実は本質的な問題であることが認識されつつある)2006年の現在であるならば、「下下戦記」ももっと”まっとう”に評価されうると思うし、評価されてしかるべきだと思う。是非一読をおすすめしたい。 #意外に思うかもしれないが、「下下戦記」は「水俣病」という文脈を離れても、非常に優れたひとつの「青春グラフティ」としても読めると思う。「水俣病」という「地獄」の中で悶えながらも悲喜こもごもに輝く青春の姿がここにはあり、それは感動的と言ってもよいと思う。(私はサイバラリエコにこの「下下戦記」を是非マンガ化してほしい、と思ってしまった。「下下戦記」は貧しくもたくましい西日本の漁村における青春グラフティでもあるのだ。)