溝口健二論: 映画の美学と政治学
映画監督・溝口健二の作品を、映画史、美学、政治学、ジェンダー論、メディア論などを横断して読み直す大部の研究書。長回し、縦の構図、検閲記録、撮影台本などを手がかりに、溝口映画が開く近代性と政治性を分析する。
作品情報
溝口映画のショットと資料を精密に読み、映画が歴史と政治を映す方法を問い直す。
木下千花による『溝口健二論 映画の美学と政治学』は、法政大学出版局から2016年5月に刊行された。本文600ページに索引等を加えた専門研究書で、平成28年度芸術選奨文部科学大臣新人賞評論等部門の受賞対象となった。出版社の贈賞理由紹介でも、映画史、美学、政治学、テクスト論、ジェンダー論を交差させる論考として位置づけられている。
レビュー要約
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従来の作家論や作品論を精査し、多角的な視点で溝口映画の新しい相貌を示した点が評価された。一次資料に基づく分析が、映画史の再検証へつながる研究として受け止められている。
書籍情報
- 出版社
- 法政大学出版局
- 発売日
- 2016-05-17
- ページ数
- 638ページ
- 言語
- 日本語
- ISBN-13
- 9784588420177
- ISBN-10
- 4588420178
- 価格
- 3080 JPY
- カテゴリ
- 本/エンターテイメント
トーキー化と長回しと縦の構図によって時空間を変容し、植民地主義や女性の人権蹂躙など矛盾をはらむ重層性を女性の身体を通して露呈させ、占領下の女性の解放を言祝ぎ、贈与交換に基づく権力関係に立脚した欲望を演出し、映画概念を拡張し続けた溝口健二に対峙して、ショットを分析記述し、検閲記録や撮影台本などの一次資料調査から、映画史、映画理論、メディア論、身体論、ジェンダー論など学際的な横断において映画学が本来有する力を発揮し、溝口健二の映画へとさらに眼差しを向かわせる画期的研究。
木下 千花 1971年東京生まれ。映画学専攻。東京大学大学院総合文化研究科(表象文化論)修士課程修了。シカゴ大学大学院映画メディア学科・東アジア言語文明学科博士課程修了。シカゴ大学で博士号(Ph.D)取得。ウェスタン・オンタリオ大学映画学科助教授、静岡文化芸術大学文化政策学部准教授、首都大学東京大学院人文科学研究科准教授などを経て、現在、京都大学大学院人間・環境学研究科准教授。主な著作に、“Something More Than a Seduction Story: Shiga Akiko's Abortion Scandal and Late 1930s Japanese Film Culture," Feminist Media Histories vol. 1 no. 1 (January 2015); “The Edge of Montage: A Case of Modernism/Modanizumu in Japanese Cinema," in The Oxford Handbook for Japanese Cinema, ed. Daisuke Miyao (New York: Oxford University Press, 2014); 「胎児の誕生」(『映画とテクノロジー』塚田幸光編、ミネルヴァ書房、2015年)、「妻の選択――戦後民主主義的中絶映画の系譜」(『「戦後」日本映画論――一九五〇年代を読む』ミツヨ・ワダ・マルシアーノ編、青弓社、2012年)、「万華鏡と航空写真――バスビー・バークレーとモダニティ」(『メディア――表象のポリティクス』小林康夫・松浦寿輝編、東京大学出版会、2000年)など。
レビュー
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渾身の溝口健二論
ある時期から映画についての言葉(研究や批評)が精緻になったのは、文学と同じに映画が手にとれるものになったからであろう。それ以前の映画についての言説は、ほとんど自身の記憶に頼るしかなかった。著者も佐藤忠男による溝口のある作品の紹介にふれ、《ビデオやDVDのない時代に脚本と記憶を頼りに書かれた》と、そのミスが仕方ない範囲である言い方をしている。 とはいえ、記憶のなかにしか映画がないことは否定的意味ばかりではとらえられない。蓮實重彦の「ジョン・フォード、または翻る白さの変容」のような批評は、手にとれないものであるがゆえに圧倒的な流麗さが獲得されている。それは、もはや映画が手にとれるものとなってしまった現在、ジョン・フォード論の本を、これ以上に魅惑的な言葉で整えるのが不可能ではないかと思わせてしまうほどの見事さだ。 私は大部で密度のある本書をページ順に読むことができなかったため(読みやすそうな後ろの章から読んだ)、結局最後に読み終えたのは、『祇園の姉妹』が、いかに無惨に検閲その他によって原形を枉げられたかの精緻な分析の箇所だった。 現存する『祇園の姉妹』は(『浪華悲歌』もそうだが)、戦後、映画会社によって大きくカットされたことが突きとめられる。著者は全体からの20分以上におよぶ傍流的箇所の削除のせいで、ヒロインの《物語をやや急ぎ足で追っている印象が強い》と指摘し、《戯画的な風俗スケッチが堆積し、社会関係の織地の厚いバックグラウンドを成すことで》ヒロイン像が《より一層際立》ったろうと惜しんでいる。かつてこの映画がその公開年のベスト作品として評価されたのは、そうした厚みがあってのことだったと思う。ところで著者が鋭いのは、時間的な削除としては、これよりはるかに短い戦前の検閲について《最小限の削除で最大限の意味の改変を目ざしただけに、別の意味で質が悪かった》と批判しているところだ。 そうしたことが書かれているのは、「第4章「風俗」という戦場──内務省の検閲」だが、まさに映画監督がどれほど表現のために戦わねばならなかったか、その「戦場」という言葉から伝わる。凄まじいバトルを溝口健二は戦ったのだと思いつつ、著者もまた、その過程をつきとめるバトルを、あらゆる資料を参照しながら戦っていると読みながら感じざるをえなかった。 いくらか残念なのは誤植が、やや多く目につくことだろうか。本文が始まって次ページ8行目の引用部分に、早くもミスが見いだされる。だが一方で日本語の古い文献引用は、旧字そのままを保つなど厳格な措置が徹底されていて、いわば全体の気配りと正確さがミスを埋もれさす働きをしている。 アカデミックな映画研究らしく専門的な用語は豊富にばらまかれているものの、それと同時に魅力的にくだけた表現がいたるところに顔をのぞかせ、読むものを微笑ませる。