作品情報
三角みづ紀の受賞作『隣人のいない部屋』。
本項目は『隣人のいない部屋』について、受賞記録と書誌確認をもとに整理した作品情報である。識別子は受賞作そのものを収録した図書に限って採用し、雑誌号や関連記事の番号は除外した。
書籍情報
- 出版社
- 思潮社
- 発売日
- 2014-08-25
- ページ数
- 160ページ
- 言語
- 日本語
- ISBN-13
- 9784783709831
- ISBN-10
- 4783709831
- 価格
- 1540 JPY
- カテゴリ
- 本/文学・評論/詩歌/詩集
「三角みづ紀の朗読に立ち会った。引きこまれた。声を出して、のびのびと声を存在の底からひきずり出して、そして動いて。いつか殺したわたしの娘みたいだった」(伊藤比呂美)。中原中也賞受賞詩集『オウバアキル』の登場は、新たな感性の出現を印象づける鮮烈な言葉の事件だった。ゼロ年代以降の世界に、苛烈に刻みつけられてきた詩群を集成する。解説=福間健二、池井昌樹、管啓次郎、野口あや子
1981年鹿児島県生まれ。東京造形大学造形学部卒業。2004年、現代詩手帖賞受賞。同年刊行の第1詩集『オウバアキル』で中原中也賞受賞。以後詩集に『カナシヤル』(歴程新鋭賞、南日本文学賞)、『錯覚しなければ』、『はこいり』、『隣人のいない部屋』などがある。新藤凉子、河津聖恵との共著『連詩 悪母島の魔術師』で藤村記念歴程賞受賞。小説、絵本、また音楽の領域でも活躍。
レビュー
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こうしてみると、この人はすごい
デビュー作「オオバアキル」は、衝撃的ではあったが、どこかしら「病理」を抱えているような 読んでいて心を引っ掻かれるような不快感もあった。 もちろんそういう詩もあっていいし、何も「読む人を心地よくさせる詩」だけが 詩ではない。 しかしその後の詩集もまとめたこの1冊は、 著者が模索しながら「オオバアキル」の負の部分を消していったプロセスが見える。 ただ、詩として見るとやはり「オオバアキル」がいいんですよねえ。 つまりこれは読み手を選ぶ詩集だと思う。 わかりづらい詩でもいい。そこに三角みず紀ならではの 一風変わった叙情があると思うのだ。
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立ち止まり、ストーリーを突き破るのが詩。
三角みづ紀『三角みづ紀詩集』をふたたび開いた。いま、私は体調が悪いのだが、こういう体調が悪いときに、ふいに聞こえる呼び声があって、また手にしたのだった。 巻頭の「私を底辺として。」という作品。 私を底辺として。 幾人ものおんなが通過していく たまに立ち止まることもある 輪郭が歪んでいく、 私は腐敗していく。 「私」と「幾人ものおんな」が登場する。これは別人だろうか。私は「ひとり」と思って読んだ。「通過していく」の「主語」は「おんな」だろう。「底辺」、つまり「底」を踏みながら、「私」を踏みながら「おんな」が通過していく。「立ち止まる」も「主語」は「おんな」だろう。「底辺」である「私」は動かない。 その次の「歪んでいく」の「主語」は文法的には「輪郭」だが、だれの「輪郭」か。「おんな」か。「おんなの輪郭」が歪んでいく、と読むのが普通かもしれない。しかし「私の輪郭」と読むこともできるだろう。 五行目の「腐敗していく」は「主語」がはっきりと「私」と書かれている。 「歪んでいく」という「動詞」を通ることで、「おんな」と「私」が入れ替わった感じがする。たぶん、入れ替わりというよりも、重なり区別がなくなった、ということかもしれない。 この入り交じった感じから、最初にもどって読み返す。 「私を底辺として。」の「して」という「動詞」は何だろう。「する」が「原形(不定形)」か。「主語」は何か。「私を底辺として/幾人ものおんなが通過していく。」と読むと、「幾人ものおんなが」「私を底辺として」(私を踏みながら、私の上を)通過していく」という「意味」が浮かび上がる。倒置法の文章のように読むことができる。そのとき「おんなが私を底辺にする」ことになるのだが、その「おんな」と「私」の関係は? また、なぜ「おんな」なのだろう。「おとこ」ではないのだろう。あるいは、なぜ「通過していく」ものが「おんな」であると「私」にはわかったのか。 私には、「私」と「おんな」は同じ人間のように思えてしまう。「私」のなかに「おんな」として自覚されるものが「私」の上を通過していく。そして「立ち止まる」。「同一人物」だからこそ、それがわかる。 「私」と「おんな」は同じ人間なのに、「私」と呼ばれ、「おんな」と呼ばれる。ふたつに分かれている。分かれているけれど「底辺」でつながっている。「底辺」なしには存在しえないのが「おんな」である。この分裂と接続の不思議な関係を、「輪郭が歪む」ということばでとらえているように思う。「私」と「おんな」を別の人間として、それぞれに明確な「輪郭」で描かない。「輪郭」を描こうとすると、どうしても不自然になる。「歪む」。 この「歪む」を三角はさらに「腐敗していく」と言い直している。ほんとうは「明確」な「輪郭」をもとめる気持ちがどこかにある。その「明確」をもとめる気持ちが「歪み」を気づかせ、その「歪み」をさらに「腐敗」と感じさせる。 この一連の「動詞」の動きのなかに、もうひとつ見逃してならない「動詞」があると私は感じる。「通過していく」「歪んでいく」「腐敗していく」はそれぞれ「通過する+いく」「歪む+いく」「腐敗する+いく」である。動いている。「立ち止まることもある」のだが、それは「いく」という「動詞」がつねに意識されているからこそ「立ち止まる」が浮かびあがるということだろう。変化しているのである。 「私」と「おんな」は、三角の「肉体」のなかで「ひとつ」に固定化されていない、変化しつづけている。その「変化」を書こうとしているのだと私は思う。 きれいな空だ 見たこともない青空だ 涙は蒸発し、 雲に成り 我々を溶かす酸性雨と成る はじまりから終わりまで 首尾一貫している 私は腐敗していく。 最初に引用した「私は腐敗していく。」の直後に「腐敗」とは正反対(?)の「きれいな空」が登場する。これは「腐敗」ということばが呼び出した「イメージ」だろう。 もし、ここに「私を底辺として。」という一行を補うとどうなるのだろう。 「私=底辺」の「上」に「空」がある。「空」そのものは動かないが、空にある「雲」はどうだろうか。動かないだろうか。動いていく。言い換えると「通過していく」。そう考えると、最初に「おんな」と書かれていたものは、ここでは「空/雲」と言い直されていることになる。三角は、最初の五行をここで言い直しているのである。 「おんな」は「涙」と言い直されている。「涙」は水分なので、蒸発し、空では「雲」になる。「雲」が集まれば「雨」になる。現代の「雨」は「酸性雨」である。「酸性雨」はものを溶かす。ものを溶かし、ものの「輪郭」を溶かす。つまり「輪郭」を「歪める」。 この「輪郭を歪められる/輪郭を溶かされる」というときの「対象」が「我々」と呼ばれるのは、「私」と「おんな」が「おなじもの」だからである。「おんな」を溶かすだけではなく、「私」を溶かすだけでもない。「おんな」と「私」を「輪郭(区別)」がなくなるまで「溶かす/歪める」のである。 最初の部分には「いく」という動詞が他の動詞と重なりながら動いていたが、この部分では「いく」のかわりに「成る」が動いている。変化をあらわしている。変化をあらわしているが、その変化には「首尾一貫」したものがある。「輪郭を歪める/溶かす」。そして「腐敗する」という変わらない動きがある。 どろどろになる 悪臭漂い 君の堆肥となる 君は私を底辺として。 育っていく そっと太陽に手を伸ばす 腕、崩れる 「おんな」は「君」にかわっている。「酸性雨=涙」に溶かされ「おんな/私」の区別をなくしてしまった存在が「君」である。「君」もまた「私」なのだが、「おんな」と書かれていたときよりも強く「おんな」が意識されているかもしれない。書かないことば(書かれないことば)の方が「肉体」にしみついて思想になっている。 「腐敗」は「堆肥」と言い換えられ、そう言い換えられた瞬間から、たとえば植物を「育てる」という肯定的なものが動くのだが、実際に、「育っていく」「太陽に手を伸ばす」という肯定的なことばも書かれるのだが、それを三角はもう一度「崩れる」ということばにしてしまう。「崩れる」は「腐敗する」に通じる。 哀しい、苦しい「おんな」としての体験(涙)を「堆肥」にして育っていくという言い方は「定型」のひとつだが、三角は、どうしてもその「定型」にはまりきれない。そういう「定型」があると知っているが(聞いているが)、そんな具合にはなれない。「いく」「なる」という「動詞」が詩のなかで動いているが、三角は「到達点」へは行けない、「実」にはなれない。逆に「崩れる/腐敗する」という方向へ逆戻りする。ただし、ただ逆戻りし、ほんとうに「腐敗する/崩れる」のかというと、そうでもない。 では、それを何と言うのか。 たまに立ち止まることもある 「立ち止まる」のである。「止まる」のである。「いく」「なる」をきわだたせるために書かれているという印象を与えてしまう一行だが、ほんとうは、ここに三角の思想(肉体)がある。この一行がなくても、「私」のなかの「おんな」が「私」を通過していく(いろいろなおんなの体験をしていく)、涙を流し、苦しみ、哀しみ、「自分」という「輪郭」をうしなうくらいにぼろぼろになる。腐敗する。腐敗しながら、そこからまた「明るく」生きようとして、また挫折する、という「おんなの人生」の「ストーリー」にかわりがあるわけではない。「立ち止まる」という「動詞」がない方が、「ストーリー」の悲劇性は強調されるかもしれない。その一行はなくてもいい。 けれども、三角は、書かずにはいられない。無意識に書いてしまう。なぜか。「立ち止まる」ことこそが「詩」を書くことだからだ。「ストーリー」に流されるのではなく、「ストーリー」を止める。それが三角の詩なのである。 どこで、どんなふうに立ち止まったか。そのとき、三角に世界はどう見えたか。そういうことを三角は書いているのだと、あらためて思った。
関連する文学賞
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