日本の文学賞

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A3

講談社ノンフィクション賞

A3

森達也

オウム真理教を追った映画『A』『A2』の延長線上で、教団と社会、事件後のまなざしを活字で問い直すノンフィクション。加害、信仰、メディア、正義の境界に踏み込む。

オウム真理教ドキュメンタリーメディア社会

作品情報

事件後の社会が何を見て、何を見ないままにしたのかを問い続ける。

集英社インターナショナルから刊行。出版社公式で ISBN と内容紹介を確認した。

レビュー要約

  • 事件や教団を単純な善悪に閉じ込めず、見る側の社会とメディアの姿勢を問う点が特徴。読む側にも判断の揺らぎを突きつける作品として評価されている。

書籍情報

出版社
集英社インターナショナル
発売日
2010-11-26
ページ数
536ページ
言語
日本語
ISBN-13
9784797671650
ISBN-10
4797671653
価格
2399 JPY
カテゴリ
本/文学・評論

なぜ「あの事件」から目をそむけるのか? 「何でもいいから、早く吊るせ!」。それが大半の日本人の本音なのか。真相究明なしに「事件」は葬り去られようとしている。『A』『A2』の作者が、新しい視座で「オウム事件」と「日本人」の本質に迫る!

レビュー

  • 失敗を繰り返さないために

    つくづく感じるのは、「事件」という現象は社会やそれを構成する個人の一断片である、ということ。 「犯罪は社会全体の責任だ」という言葉を耳にする度、何とも腑に落ちない感覚を持ってしまうのだが、 今回、森氏が題材として取り上げた「麻原彰晃」にしても、 日本社会や日本人の特徴をよく象徴しているし、また上手く物語っていると思う。 読了して、一連のオウム事件が「現在進行形」であることを思い知らされた。 最近、平田容疑者の出頭に伴い、オウム事件の話題がにわかに盛り上がりの兆しを見せている。 私の中では正直、これらの事件が完全に風化していた。「忘れていた」と思っていた。 しかし、本書を読んで、実際は「忘れたがっていた」だけなのかなと、少し反省した。 本書には二つの視点があると思う。 一つは、なぜオウム事件が起きたのか。 当事者である麻原は何を思い目指していたのか、またどういう過程を経て事件が発生したのか。 今一度、整理して実態を明らかにしようとする視点である。 もう一つは、オウム事件を前後して日本社会がどう変化したのか、という視点。 一連の事件が我々に与えた影響を、我々自身がどれだけ気付いているのか。 このままでは、まずい。 だから、この失敗と真面目に向き合おうというわけである。 最も恐ろしいのは、あの事件が何だったのか「誰も知らない」という事態であろう。 先の戦争に関しても、テレビで今だに検証番組が放送されているけれども、 60年経って明確な答えが出たとはとても思えない。 少なくとも、国民的合意は形成されていない。 私に言わせれば、全員の責任である。 軍部もメディアも、そして国民も日本人すべての相互作用で巻き起こった過ちであったと思っている。 オウム事件に関する森氏の考えもこれに似ている。 尊師と弟子の間に介在した「幻想」と「思い込み」が事件を誘発したのである。 「麻原は、側近たちにとっては唯一のマーケットであり、 側近たちは麻原にとってかけがえのないメディアだ」(474ページ)とはその通りだろう。 「周辺と麻原との相互作用。そこに本質があった」のだ(485ページ)。 初期の強制捜査の時点で、麻原はすでに追い込まれていたのではないか。 そう考えると、検察側の主張は単なるこじつけであって、 したがって、麻原にとっての地下鉄サリンは「幕引き」(509ページ)であったとする見方の方がしっくりくる。 とすれば、今後ますます麻原の証言が重要になってくる。 麻原が詐病なのかは私には分からないが、彼に何も語らせないまま事件が収束してしまうならば、 我々はまた同じ失敗を繰り返すことになる。 森氏と立場の異なる人々の主張を知らないから何とも言えないけれど、 本書を読む限り、司法側がどうしてこんなにも結論を急ごうとするのか理解に苦しむ。 しかも、その結論はすでに決まっているのである。 これでは、邪推したくもなる。 国家は何かを隠しているのではないか、と(509〜510ページ)。 国民が無関心のうちに、国家は警察の失態を揉み消そうとしているのではないかと疑ってしまう。 それにしても、相変わらず森達也は冴えていた。 146、280〜281、346ページあたりは、特に教えられる。 人間にとって、目に見えない恐怖というのが最も恐ろしい。 だから、「麻原彰晃」という実在する人間を絶対的な悪の権化として設定したいのである。 そして、その可視化した存在を抹殺できた時、我々の心に真の安寧が訪れる。 こういうシナリオを皆で望んでいるのかもしれない。 やはり、自分で考えることが重要なんですね。。。

  • 確定死罪の男

    「A」より今作に至るまでの、著者の一貫したスタンスとして、 1. 純粋に客観的な表現など存在しない。 2. メディアを含めた全ての表現行為は、多かれ少なかれ、製作者の主観に基づいている。 というものがある。 これは正論であるが、同時に極論でもある。 ポピュリズムに染まり切ったメディアと、それを受け取る視聴者側の、メディア・リテラシーの欠如に対する警句。現実が極端へと傾くならば、アンチテーゼもやはりもう一方の極端へと傾斜しなければ用を成さない。故に極論であっても主張の意義はある。 著者は、全てのメディアは情報の恣意的な取捨選択を行っていると主張する。それと同時に、自ら(著者 森達也 自身)の著作にあっても、人が主観を超えた表現など為し得ない以上、(作為、不作為に関わらず)何らかの傾向を伴った情報の取捨選択は行われていると告白する。 それもそれでいい。自著により発せられるメッセージの性質を、前提として示したに過ぎない。 ただし、この種の主観主義が、製作者の客観的事実を求める努力の放棄に繋がるなら話は別だ。これは直ちに著者である森達也氏がその努力を(意識的に)放棄しているという意味ではないが、ある種の緩み"のようなものが見受けられるのは否めない。 まず第一に、ドキュメンタリーにしては個人的な挿話が多い。 第二に、第一に付随する形で個人的な感想、所見、主張等が多く見られる。しかもそれらが、著者自身が信者等に行ったインタビュー結果から、裁判の傍聴記録、さらには他書籍からの引用などと共に全て同一の地平で、シームレスに語られている。 このような個人的文体を成立させ得るのは一種の作家的才能であり、多くの共感者を生む要素を持つ反面、同数かそれ以上の拒否反応を引き起こす可能性も併せ持っている。 ましてや、今作において中心テーマとして取り上げられているのは、あの20世紀日本最大の悪の化身、「麻原彰晃」である。このような怪物と相対するに、なぜ「客観性」という鎧をかなぐり捨て、剥き身の個人で立ち向かおうとしたのか。『A』及び『A2』は映像作品であるが故に、製作者自身の意図はどうであれ、映像という表現手段そのものに一定の客観性が保障されていた。だが今作『A3』は映像作品ではない。写真と絵画の例に同じく、文章表現には偶然性の入り込む余地はない。その表現内容は全て作者の恣意性に委ねられており、だからこそノンフィクション作品は、日時・場所を詳細に記したり、引用文を多用したり、膨大な参考文献を列挙したりする。そのようにして著述の客観性を担保しようとする。 今作『A3』においても、著者自身の手になる一次資料(H25年現在 確定死刑囚となった元オウム幹部や、麻原彰晃と過去に縁のあった者へのインタビュー等)は、一連のオウム事件を精査する上で極めて重要なものばかりである。なぜ、これらを社会に提示するにあたって、「客観的事実」という(いかがわしくはあるが)ドキュメンタリー作品の真実性を容易に担保する装いを身に纏わなかったのか。もしも著者が今作に対し、他の一般的なドキュメンタリー作品と同程度に『客観性』ということに対する注意を払っていたなら、これに対する世間の反応もまた違ったものになったのではないかと思うのである。 などと、ここまで書いて改めて思うことがある。 作為的な客観性などによって、自らの作品価値を世間に担保しようとするような人間が、あの1995年当時の状況で、オウムの内から社会を撮影しようとなど考えるだろうか。結局のところ、この作品は著者 森達也のアイデンティティーにまつわる個人的な物語ではないのか? 善と悪。個人と社会。真実と虚偽。それらすべての二律背反の中心に、麻原彰晃と呼ばれた男がいる。今作『A3』500頁強の情報を吟味してなお、その実像は混沌を深めていくばかりである。

  • 詐病か否かが知りたくて

    死刑執行直前に遺骨を誰に渡すか答えたという報道に違和感があり(詐病だったということになるわけで)この本にたどり着きました。一番印象に残ったのは完全に失明したため外部の情報を弟子から口頭でインプットするしかない(虚偽の報告も多く)うえに最終解脱者を公言しているので、既に知っていたふりをするしかないという状況下、被害妄想がつのっていったという説です。読み応えありました。

  • A = 麻原彰晃。胸が苦しくなる。テレビでは絶対にやらない本当の姿。

    ◆伝言ゲームの最初へ 森達也さんは、どんな報道陣も入れなかった(入らなかった)事件直後のオウム教団施設に「すっ」と入っていき、広報部長の荒木浩(あらきひろし)を中心にドキュメンタリーを撮ってしまった人だ。 この本『A3』でも、麻原の子ども時代を知る人、高校の先生、青年時代に行き着けだったという寿司屋の主人、事件以前を知る新聞記者などに取材している。 ――「げんきもん」だったこと、「痛々しい」「謙虚」「良いか悪いかはともかく一生懸命だった」「きついおやじギャグ」(と信者が言っていること)「かわいそう」―― 実際に彼に会ったことがある人が語る言葉は、 実際には会ったことがない人が報道などから抱くイメージとは、ぜんぜん違う。 これは当たり前だけど忘れがちなことで、本書を読みながら、自分の思い込みや過小評価に気づくことがたくさんあった。またびっくりしたこともあった。 (例えば私は麻原の目がほとんど見えないことを、なにかで読んで知っていたけど、しっかり想像することなく過小評価していた。著者は、目が見えないということはどういうことなのかを想像しながら、そこに、事件の契機を読み込んでいる) (また、極端に戯画化された――テレビでは、「しょーこーしょーこー」「修行するぞ修行するぞ…」は、ほとんど、怖くて笑える「ギャグ」だった――姿や、いま言った人間的な側面とはちがった、ちょっと簡単には割り切れないカリスマ性もまた語られている) ◆麻原の過去/現在 この本の中で、たぶんいちばんの衝撃は、麻原の現在の姿なんじゃないだろうか。 本書では、麻原の過去を丁寧に追われるのと平行して、 むねが悪くなるような現在が描かれている。 (もともと『月刊プレイボーイ』に連載されたものに、大幅に加筆修正が加えられたものなので、現在進行形になっている) 報道では「詐病」というふうにも伝えられているけど、読んだらとてもそうは思えないはず。 人間がこんなふうになるものなのか??? 「壊れた」という言葉でしかいいようがない。 裁判中に、法律に守られた中で、こんなふうに変わってしまった。 「壊れた」まま放置された。 しかも、(弁護団と森さんをのぞいて)だれもそれを公におかしいという人がいなかった。 そして事件が解明されないまま、裁判が終わり、死刑が確定してしまう。 ◆なぜ事件が起きたのか そこで、著者は、獄中の元信者と手紙を交わしながら、事件の経緯をおっていく。 事件をじっさいに起こした人達と考えていくのだ。そこがすごい。 (逆に言えば、事件を起こした張本人にも、なぜ事件が起きたのかがわからない…) 信者一人ひとり、いろんな思いを抱えていること。 麻原自身も抱える迷いや揺れも見えてくる。 確実に一人ひとりの人間がやっていることなのに、事態は一人ひとりを超えて動き出す。 読みながら、もうちょっとなんとかならないのか、誰か止めてくれないのか、と何度も思う。 後半で、事件の最大の要因として語られるのは、全部を試練と解釈しなおしてしまうマハームドラーという思考についてだ。このあたりは読んでいて、とても、息が詰まった。 本書を読んでわかるのは、 オウムはまったく時代遅れの問題などではない、ということだ。 特異な、一回限りの事件ではない。 特殊な、頭がおかしい集団が起こした事件ではない。 これは、人間の集団に組み込まれたサーキットなのだ。 わたしたちは徴候を読み取って、慎重に、そこから抜け出さなければならない。 そのための貴重な、ケーススタディとして、読んだ。 エピローグの中川さんの言葉は、痛切すぎる。たまらない気分になる。 読み終わって、ため息が出た。

  • 風化したからこそ書きえたこと

    自分はかつてオウムにいたことがある。まだ半分しか読んでいないが、すでに多くのことを考えさせられた。レビューが長くなってしまうことをお断りしておく。 サリン事件が起きて、富士の上九一色村には多くの記者が集まっていた。不法侵入などの問題で、ほとんどが道場の敷地の入り口で取材をしていた中で、ただ一人教団内を歩き回っての取材を許されたのが著者の森氏だった。それが「A」という映画に結びついていった。自分は当時、教団内で肉体労働に従事していたが、森という名前は始めて聞いた名前だった。その人物がライフワークとして、オウムを追い続けている。一方、自分はその三年後にオウムを抜け出し、現在は会社員として普通に暮らしている。 脱会後、ずっと気になっていたのはあれだけの事件でありながら、まったくといっていいほど総括されていないということだ。その場で起きたことなどは明らかになっているが、今後の日本人の教訓になるようなことは何一つ残されていない。本文に書かれている通り、いろいろな事情はあるのだろう。しかし本質的な理由はおそらく一つだ。オウムや麻原に対して「自分たちとは違う、変な人たち」ということにしておきたい。それが潜在的な意識として働いているのだ。 しかし社会がそれを通すためには、様々な無理をしなければならない。それがオウムに関しては、どこもかしこも異例続きになる原因なのだ。森氏はそれを目撃していく過程で、日本という国が徐々に変容していることを実感する。一連のオウム事件が日本における9.11であり、中心人物の麻原彰晃がその特異点であることを。 だが、裁判に当たって麻原の発言はほとんどない。それは精神に異常をきたしている、またはそれを装っているからだとされている。本文でも多くの人が「もともと死刑なのだから、早く終わらせてしまえばいい。」と言っているくだりがある。自分はどのみち死刑を免れないのなら、生きている間、仮に詐病であっても治療してみることに意味があるのではないか、そして仮にうまくいったなら、裁判やそのほかの手段で本人の言動から、事件にいたる道程を探るべきだ思う。制度的に無理なのかもしれないが、このまま終わってしまえば、この人物はこの世に何の教訓も残さず、悪い前例と悪法を置き去りにしていくのみだ。 オウムは人類滅亡の予言で危機感をあおることで信者を増やした。本来は複雑であるはずの人生を功徳と悪業という善悪の二元論で、簡単に分類してしまった。そして悪人はポアしても問題ないと。 麻原が逮捕されたのち、社会は同様にオウムへの恐怖から簡単に人間を分類した。我々は正義である。あいつらは悪人だと。そして異例であったものが日常化されていった。 日本社会はあまりにオウムを憎んだゆえに影響を受け、その大きな似姿になろうとしているのではないか。この本は時代に対して警鐘を打ち鳴らしている。 最後に森氏がオウムをライフワークとして観察し続けてきたことは、日本人にとって幸運なことだと付け加えたい。戦後これほど風圧の強い問題はなかっただろうと思うが、それに負けることなく公正な立場で世に問い続けることは容易なことではないと想像する。

  • オウム(麻原)に肩入れし過ぎ。

    オウム真理教事件に関心があり、より詳しく事件を知りたいと思ったのだけど…。 まぁ読んでて、ゲンナリしました。 著者は、オウム・麻原氏の「回し者」かって位に肩入れし過ぎている。 本書で繰り返し、「地下鉄サリン事件は全容が解明されていない」「側近が勝手に起こした可能性もある」と言ってるけどさ。逆に江川紹子さんなんかは、「地下鉄サリン事件は全容が解明されている」「信者の証言が食い違う部分があったとして、100%整合性をとったり、万人を納得させる『全容解明』は不可能」と言ってる。 後は、「麻原氏は詐病ではない。自分も面会したけど、明らかにおかしい。精神崩壊してる」と。だから、死刑執行はどうとか。挙句の果てには、本書で裁判官批判までしてる。(要は、「詐病」と認める裁判官に、あなたはおかしい、どうかしていると) けど、拘禁反応・精神疾患があるから、死刑執行するなというのもどうなんだろ? 麻原氏の判断や決定、行動で、一体何十人がなくなったことか。それこそ表沙汰になってない、信者の失踪・婦女暴行事件なんて、山ほどあるらしい。 大体、どの程度の拘禁反応や精神疾患があれば、死刑執行・不執行のラインとなるのか。そんなこと言い出したら、キリがない。 この本は、読者のスタンスによって評価が変わると思う。 個人的には、著者が中立より、オウム(アーレフ)側に立ち、書いた本のように思え、不快だった。

  • う~ん、そうなのか!?

    謎のオウム!読めば何かがわかるのか? との思いで手にした本。 わかった部分もあり、わからない部分もあり。 これは、作者自身があそうでるわけなので、 当然でしょう。 この日本で起こった重大事件。それを真摯 に追ってはる姿には脱帽というか、色々風 当たりや何やかや大変やったやろなぁ~ とか無力感とかも感じます。 この作者自身のドキュメントとも見受けられます。

  • 素晴らしい思考。

    オウム真理教を知らない人が多いのが現代社会ではないのか。 当時は大学、医療、法曹、工業、弁当屋など社会のあらゆるところに実際問題としてオウム真理教があった。 だから、地下鉄サリン事件後、全くオウム真理教と関係ないぼくまでが警視庁や神奈川県警の機動隊による自宅訪問が毎日あった。 当時は若くて大学を出たばかりで経験がなく警察が怖かった。 (警察もわけもわからないから、関係ない者まで徹底的にマークしたのだろう。バブル崩壊直後で警察にも潤沢な金があったからあんな杜撰な捜査が出来たのだ。しかも、この事件は警察の捜査ミスの連続だった。宗教、組織犯罪、そういうものに対して、著者が述べている公共敵にならないものに対して警察は捜査をしない。) その状況を、著者はよく見ていて、公共敵ということばで表している。 当時をよく知るものとして、死刑執行がなされた人たちの名前を見て、この人はそんなに話題になった人だろうかと改めて思う。 警察と当時盛んにテレビに出ていた人たちによって、公共敵にされたわけだ。 それに、考えることを奪われて、ぼくもまんまと反オウム真理教という宗教の信者となってしまったわけだ。 そこから抜け出す意味でも、この本を読んでほしい。 当時を知るものとしては、オウム真理教について説得力のある説明ができたのはこの著者あるいはなだいなださんだけだろう。 オウム真理教問題を解決できていないから、就職氷河期、ワーキング・プア、ニート・ひきこもり、そうせざるを得ない人たちが、振り込め詐欺の類いあるいは家族殺の類いまたは虐待にいっているように思う。 寛容な社会で帰属があれば、そういう犯罪は少なくなる。 文章も、そんなに難しくない。 なだいなださんの同じで思考を楽しめる。 倫理や哲学を愛して、社会で笑われようと自分で徹底して考えられる人に読んでもらいたい。

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