余白の祭
俳句を軸に余白、季節、身体感覚をめぐる批評的な思索を広げる一冊。詩歌の言葉が持つ沈黙や間合いを、生活の感触と結びながら読ませる。
作品情報
「余白の祭」は、受賞記録と書誌確認から輪郭をたどれる作品である。
俳句を軸に余白、季節、身体感覚をめぐる批評的な思索を広げる一冊。詩歌の言葉が持つ沈黙や間合いを、生活の感触と結びながら読ませる。 書誌識別子は Amazon JP、NDL Search、出版社・書店情報を照合し、単行本・文庫として確認できるものだけを記録した。
レビュー要約
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作品の設定や語り口に関心が向けられている。読みやすさを評価する声がある一方、公開された読者反応は限られるため、評価傾向は控えめに整理した。
書籍情報
- 出版社
- 深夜叢書社
- 発売日
- 2013-03-01
- ページ数
- 413ページ
- 言語
- 日本語
- ISBN-13
- 9784880324074
- ISBN-10
- 4880324078
- 価格
- 2640 JPY
- カテゴリ
- 本/文学・評論
Amazon.co.jp: 余白の祭 : 恩田侑布子: 本
レビュー
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とても密度の高い俳句評論
一読し、著者の感性の深さ、広さ、鋭さに瞠目した。また、著者の博識振りにも驚かざるをえない。虚子の写生俳句を「屋上庭園俳句」と命名し、現代詩の詩人達を「自我肥大派」と言い放つ。そして、誰よりも評価するのが俳人の攝津幸彦である。その俳句は有季無季を問わない。俳句はただ「詩」であり続けるだけなのだ。その辺については、第五章の「異界のベルカントー攝津幸彦」において詳しく知ることになる。攝津の俳句としての詩は、小説に例えれば、ジェイムス・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』に匹敵する世界だ。わずか五・七・五の言葉の世界が、こんなにも広く豊かでエロティックで滑稽な表情を一度に描ける俳人はかつていただろうか?攝津の俳句を理解するために、著者は仏教の「唯識論」を丁寧に紹介しており参考になる。 ただここで、二つほど疑義を呈しておきたい。一つは、著者の「ラングとパロール」の関係についてである。著者はパロールがラングから独立して存在するというように捉えているが、パロールはあくまでもラングを素材として定立されるのであり、著者の考えを斟酌すれば、それはアントナン・アルトーの世界に行き着くだろう。もう一つは、長谷川櫂の俳句への批判についてである。著者は長谷川の俳句について、「混沌」のなさ、「深淵」のなさを指摘しているが、彼の俳句の世界は、そうした世界を濾過した上での表出ではないだろうか?それを単に、「意味文節の透明なきわやかさ」へ向かうのみと言い捨てるのは、一方的ではないだろうか。結局のところ、無調整音楽も良し、調性音楽も良し。調整音楽を無価値とし、無調整音楽のみが音楽だとするのは、極言ではないだろうか?
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網、網、網
印象的な表紙はグスタフ・クリムトの絵画の一部です。 クリムトの画風はともすると「余白」とは正反対のように思われるのですが、 あえて表紙に使ったのには理由がありそうです。 著者は最終章「余白の思想」で、『荘子』を引き合いにだして次のように述べています。 ・・・混沌を聴くひとは、この世という相対差別の分別の世界を超えて無竟に遊ぶひとです。・・・自我でいっぱいなこころを空に明け渡し、無とも呼べない純一な混沌を迎え入れるのが天籟を聴くことでしょう。・・・琴の名手として名高い昭氏が琴を弾くことで、宇宙の無限は損なわれてしまうのです。昭氏が琴を弾かなければ、全き混沌の諧調は損なわれない。・・・天籟は、昭氏が演奏を止めたあと、区別も存在もない天空に満ち満ちます。それは混沌のいのちのやすらぎです。 余白にこそ混沌があり、無限の祝祭がある、と著者はいっています。芸術はどれほど天才によるものでも、昭氏の弾くひと鳴りに過ぎないのです。 ところが、著者はさらにこう言います。「しかし、そのひと鳴りはまったきものの暗示でもあるのです」と。余白の思想とは、限りなきもの、まったきものを限りあるものによって追いかけつづけていく思想であり、限りあるもの=ひとつ鳴らした音によって、その奥に潜む無限の祝祭を暗示させ、感じさせることを求めているものなのです。 その意味で、クリムトはまったく別の経路を通って同じものを追求しているといえそうです。(私はクリムトについての知識はあまりないのですが、、) クリムトは無限の美の混沌を表現するために、無限の展開性をもつ夥しい数の紋章めいた形象を描き出しました。 俳句は、無限の混沌を表現するために、空白と、そこに楔を打ち込むような凝結された言葉を必要としています。 もしかしたら極限の凝結性は、無限の展開性と表裏一体なのかもしれません。 (そのように考えながら、この本の表紙を眺めていると、右に見えるクリムトと、左に見える黒と白い文字が絶妙のコントラストであることに気づかされます) 俳句を起点に、以上のような文芸一般にまで言及しており、著者の視野の広さを感じることができます。 俳句に詳しくないのひとにも読まれるべき一冊でしょう。
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俳句は詠嘆に流れず
短歌と俳句の違い(詠嘆と観照)ほか、俳句における「写生」の意味など、深く掘り下げられた俳論に納得させられた。
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感想
本書は、10数年間に渡って書きためられた文学評論のアンソロジーです。中身は名句の鑑賞、古今の俳人論、随筆・紀行文風なものなど種々雑多。しかし読者の目の前に現れるそれら数々の小径をかき分けていくと、いつしか著者の俳句世界へと続く一本の大路が姿を見せることになります。 俳句に限らず言葉そのものが空疎化し上滑りする現代を批判的に見据えながら、「俳句は何を表現しうるか」を著者は問い続けています。氏によれば、俳句の本質とも言うべき余白とは、ちっぽけな自己を縦方向(通時的)と横方向(他者・環境世界)に破り行くところに成立するものなのです。それを可能にするのが季語であり、記号的な言葉をその豊かなる背景へと解き放つ「切れ」です。 本書は俳句愛好者だけでなく、「俳句ってよくわからない」と感じている人にとっても一読の価値のある本だと言えます。本書を読み終えたときには、俳句の鑑賞力が格段の脱皮を遂げているはずです。また俳句に限らず、文学好きな人であれば誰でも興味を掻き立てられ、思わず惹きこまれてしまうことでしょう。
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恩田侑布子 「余白の祭」をおすすめします
この本は著者の長年にわたって書き溜めた俳句文学への深い思索と、俳人、その作品への鋭い批評をまとめたものである。本を開くと荘子、能、エロス、志ん生、デュラス、唯識、伊藤若冲、はては福島原発問題まで目に飛び込んできて、まるで大理石の盤上に色玉を転がしたようでびっくりさせられる。しかし、これらが、じつは磁石の針が北を示すように、すべて俳句という文学の一点に強く集結していくので、ふたたび驚かされる。著者はそのめくるめくような華麗な文章によって俳句文学の未来を情熱的に志向しようとしている。その文章の一つ一つは読む者にとって、あるいはダイヤモンドの粒を噛むような歯ごたえを感じさせるであろう。しかし、現在の俳句の世界に安住を望まない高い志の持主が、これを読み解く努力を惜しみさえしなければ、得るところの大きい本ではないだろうか。
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この本の読み方
率直に言って難解な本である。求道のためか、はたまた読書を生業とする人でなければ全面読み通すのは難しい。と言って、避けてしまうのは勿体ない指摘、解説に富んでいる。 で、この本の読み方を伝授する。 それは、それぞれの評論の最初にテーマ(取り上げた意図)が簡潔に提示されるのでまずそれを十分味わう。続いて本論ともいうべきものが続くがこれが難解、あきらめる。さらに詳しく知りたい時やテーマに不満だった時に読む。 例えば、高屋窓秋「頭の中で白い夏野となってゐる」 “虚子以来のいわゆる伝統派からは、上五、中七の「で」と「と」の助詞と、結語の「ゐる」という、状態の補助動詞が、説明的とみなされるにちがいない。・・・ところがわたしは、・・・「で」と書かれたことによって、はじめてこの句は、新鮮ないのちを持つ現代俳句となったのだ。ちなみに「で」を、「が」と「は」に置きかえてみよう。 頭の中が白い夏野となってゐる 頭の中は白い夏野となってゐる 非常にスッキリする。同時に何の感動も謎もない句になる。” ここまでで十分。もの足りない方は次の本論をどうぞ。 “作者と「頭の中」と「白い夏野」が等号で結ばれ、完結してしまうのである。すなわち一句は、とたんに作者の自我のなかに閉塞し、エゴのなかに窒息しかかる。”