日本の文学賞

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遠野物語と怪談の時代 (角川選書 474)

日本推理作家協会賞

遠野物語と怪談の時代 (角川選書 474)

東雅夫

『遠野物語』と近代怪談の成立を結び、民俗、文学、出版文化の交点を読む評論。怪談を単なる恐怖譚ではなく、時代の想像力として捉える。

怪談民俗近代文学

作品情報

遠野物語と怪談の時代は、東雅夫の受賞作として刊行形態でも確認できる作品です。

遠野物語と怪談の時代は、角川学芸出版から刊行が確認できる東雅夫の作品。受賞歴と書誌情報を合わせて読むことで、同時代の文学賞が評価した題材や語り口を追える。

書籍情報

出版社
KADOKAWA/角川学芸出版
発売日
2010-08-25
ページ数
256ページ
言語
日本語
サイズ
13 x 1.5 x 19.1 cm
ISBN-13
9784047034747
ISBN-10
4047034746
価格
1407 JPY
カテゴリ
本/社会・政治/社会学/社会一般

『遠野物語』は怪談への熱狂から生まれた! 怪談スペシャリストの東雅夫が、その誕生と時代の諸相を怪談史の視点から探究。明治後期に文壇を席巻した怪談文芸の潮流をひもとき、怪談実話『遠野物語』に迫る。 〈目次〉 序章 会談実話の見果てぬ夢 『遠野物語』の隠された顔/会談文学史の視点から/会談実話集としての特質 第一章 「会談の研究をめぐって」 封印された談話記事/二種類の会談とは?/会談鑑定人・柳田國男/虚々実々の会談実話取材/純の純なる会談としての山男探索/神隠しの実体験/高山平馬をめぐる真相/旅先の按摩が語る物語/掲載誌をめぐる問題/「村の址」と鈴木鼓村 第二章 怪談ルネッサンス 百物語怪談会の伝統/歌舞伎新報社の百物語「やまと新聞」主催の百物語/井上円了の妖怪学と英国の心霊研究/『妖怪百談』vs『幽霊一百題』/「文藝倶楽部」の怪談実話コラム/「日本妖怪実譚」の内容/岡本綺堂と三宅青軒 第三章 泉鏡花と柳田國男 鏡花怪談の原点にも百物語が! ?/「湯女の魂」と「蝙蝠物語」/「夜叉ケ池」のモデル/実話から創作へ──「海異記」三態/鏡花の怪談会クロニクル/燎原の怪火のごとく/龍士会に集う人々/『怪談会』誕生の背後に『怪談会』と『遠野物語』の関係/「遠野の奇聞」出現/鏡花による『遠野物語』鑑賞/われら、本朝の鬼のために! /鏡花版『遠野物語』の趣も/民俗学サイドから見た「遠野の奇聞」/「怪談百物語」での両雄共演 第四章 「遠野怪談」三人男 「怪談の会と人」/水野葉舟の怪談観/鏡花先生を夢見て/幽暗怪異な葉舟商品の世界/「長靴」と「念惑」──鏡石怪談の世界/怪談実話小説としての「北国の人」/活写される怪異の語り部/恋と怪異に翻弄される喜善/「女の顔」と「男の顔」/「北国の人」に憤る喜善/三者三様に描かれた浜辺の怪異/お化け好き青年たちの日々/柳田邸の「お化会」/「妖精譚」か「怪談」か? 終章 遠野物語に始まる怪談史 百年前の怪談文芸シーン/芥川龍之介と『椒図志異』/岡本綺堂と『飛騨の怪談』/田中貢太郎と『怪談』/三島由紀夫と『小説とは何か』 復刻資料 日本妖怪実譚 主要参考文献 あとがき

1958年、神奈川県横須賀市生まれ。早稲田大学文学部卒。「幻想文学」編集長を経て、怪奇幻想文学のアンソロジスト、評論家となる。現在、怪談専門誌「幽」の編集長をつとめる。

レビュー

  • 柳田國男と再会できるかも

    その、「遠野物語」を公刊した当時の、柳田國男のことを、現代の視点で捉えなおした評論。 従来の民俗学の祖として定着した柳田像に対する挑戦?ともとれるが、どだい、怪談と民俗というのは、同じ穴の貉! 手法が異なるからと異端視するのは、やはり変だと思える。 その時代のこと、また現代という時代のことを考えるのに、もってこいだと思える。

  • 『遠野物語』が生まれた時代

    日本民族学の指標とも言える不朽の名著『遠野物語』ー。 然しながら、この作品には、実は「怪談実話集」というもう一つの顔がある、と著者は言う。 …にも拘らず「民俗学誕生の記念碑的作品」としての評価が高まれば高まる程に、「怪談集」としての顔は忘れ去れて行く。 まるで「崇高な『遠野物語』は、俗っぽい怪談話等とは訳が違う」とでも言わんばかりに…。 だが、本当に「怪談話」を低く位置付け、一蹴してしまっても良いのであろうか? そこで『遠野物語』が生まれた時代に焦点を当て、改めて本作品の「怪談実話集」としての側面を読み解いたのが本書である。 本書は「怪談の時代」と題される通り、怪談話に関心が高かった当時の様子を髣髴とさせる。 怪談研究、百物語怪談会、文芸雑誌に盛んに掲載された作品、そして井上円了に依る妖怪学と、それに反発して活性化した怪談復興の流れ、或いは柳田國男を取り巻いた錚々たる面々、泉鏡花や岡本綺堂など。 また、明治時代の名立たる文人達が怪談にまつわる作品を執筆し、更には『遠野物語』が後世の芥川龍之介や三島由紀夫に多大なる影響を与えた事等、如何に「怪談実話集」としての『遠野物語』が多くの人を魅了し続けたかという事がよく解る。 取り分け興味深かったのが、柳田國男が怪談に対して貫いた姿勢を考察した箇所である。 柳田國男は、確かに「怪談」という言葉の使用には非常に慎重だったと言うが、それは決して否定の態度ではなく、それだけ内容の真偽に拘りがあったからなのだ。 即ち、柳田國男の関心を唯一惹き付けたのは「作り話」ではなく「実話」であったと言う。 そして、この実話を集める為に綿密な取材をして生まれたのが『遠野物語』であり、だからこそ一層の臨場感と不気味さとが感じられるのであろう。 尚、このように実証性が高く、然も新鮮な着眼点で書かれた著作ではあるものの、私個人の目的とやや違った内容であったという事、そして構成に若干の難点が見受けられたので、申し訳ないが全体の評価は平均点とさせて頂いた。 本書は、上記にも述べたように、怪談に高揚した時代背景、或いは柳田國男を取り巻く人々等を主体にした作品であり、『遠野物語』は一つのキーワードに過ぎない。 然しながら、私は『遠野物語』の内容自体に則した、謂わば「遠野物語副読本」のようなものを期待してしまっていたので、少々趣旨が違ったのである。 そしてもう一点、些細な点なのだが、とにかく「引用文」の占める割合が多いのが気にならないでもなかったのだ。 何しろ、各種の記事や雑誌の一文、日記、寄せられたコラムの筆者と表題の一覧、更には、短編小説の全文掲載等、確かに具体性はあるものの、余りにも引用が長いと内容を読むのに夢中になってしまい、何を謂わんとしていたか…と言う肝心の目的を忘れてしまったりもする。 全体的にもう少し簡略化した方が良かったのではないかと思うと、その点が少し残念である。 尤も、私自身は『遠野物語』は読んだものの、その時代背景に関する知識が皆無であっただけに、戸惑っただけに過ぎないかもしれない。 『遠野物語』をじっくりと読み込んだ上で、更に一歩踏み込んで追求したいという方にこそ本書の本当の価値が解ると思うので、そのような方は、躊躇する事無く本書を手にして頂きたいと思う。

  • 柳田國男とゆかいな(?)お化け仲間たち

    本書を読んでいて、ふと上記の裏タイトルを思い浮かべてしまった。 明治維新後の西欧化の波にもまれ、日本人は次第に合理主義・功利万能主義へと思想すらも変質させてゆく。そんな中で文壇を中心に起こった怪談ブーム。 イギリスからの科学的な「心霊研究」の輸入、哲学者・井上円了による「妖怪学」の講義によって、これまで娯楽としての色彩が強かった怪談がにわかに「学問」として注目されだしたことが一助ともなった。 東京の料亭などで新聞雑誌社の協力の下、百物語式の「怪談会」が催され、作家・画家・俳優・ジャーナリスト・実業家たちが出席しているのは、このブームが知識階級によって牽引された「高尚な学問・趣味」であることを端的に物語っている。 このような集いが毎夏のように催される少し前の明治43年、柳田國男により『遠野物語』(以下、『遠野』)が上梓された。 現代では、どの民俗学書を開いても「日本民俗学の黎明を告げる記念碑的著作」と位置付けられるこの書を「怪談実話集」の視点から見直し、加えて同時代の怪談ブームを率いた人々、柳田にゆかりのある人々それぞれにスポットライトを当て、彼らが生み出した新時代の怪談文芸を展望するというのが本書のテーマである。 登場する主な“お化け仲間たち”は、佐々木喜善(作家・民俗学者)・水野葉舟(詩人・作家)・泉鏡花(作家)・鈴木鼓村(筝曲家)・喜多村緑郎(俳優)・平山蘆江(ジャーナリスト)・岡本綺堂(作家・劇作家)・芥川龍之介(作家)などなど。 彼らのうち、特に柳田と関係の深い佐々木と水野、そして鏡花の3人はそれぞれ1章をあてて本人たちの横顔と著作、柳田との出会いと『遠野』を巡ってのエピソードが紹介されている。(佐々木は『遠野』の素材提供者、水野は佐々木を柳田に紹介。鏡花と柳田はお互いの著作を愛読、鏡花は『遠野』を絶賛する評を書いた) 怪談を通じての彼らの緊密な結びつき、「怪談会」の様子から当時の文壇の活気が感じとれる。作家たちが「会」や雑誌で発表した怪談を自らの創作に役立てているのも「さすが」というべきか。 とにかく紹介される資料が多く、当時の文献からの引用がたっぷり、珍しい怪談小品の全文掲載まである。 また、聞き書きタイプの「実話」では、聞き手が複数人いてそれぞれが文章にすると、表現の仕方の違いから全員が嘘を書いていないにもかかわらず、些細な部分で食い違いが生じる。結果として、3人の聞き手がいれば三者三様、印象の違う「実話」になり、読み手にとってはどれがより事実に近いのか判断がつかないという実証が興味深かった。それでいけば、一対一の聞き書きながら『遠野』を「感じたるままに書」いた柳田と、出版を喜ぶ一方、当惑もしていたという佐々木の心中も何となく察せられそうでもある。 “お化け仲間たち”はこうしてお互い刺激を受け、影響を与えあって創作の糧としていた。柳田もまた、「怪談好き」を公言しなかったものの、ブームの兆しを受け『幽冥談』などを執筆、怪談にかかわる仕事が『遠野』へとつながっていき、鏡花たちへの影響ともなった───というのが東氏の考察である。 しかし、実は柳田は明治後期から昭和初期まで幾度か催された「怪談会」にほとんど出席していない。 欠席の理由として、東氏は「旅行の予定が入っていたため」と推測しているが、それはちょっと安直に過ぎるように思う。それを言うなら、「旅行の予定があるのをこれ幸い、欠席するまっとうな理由として利用した」とも考えられるではないか。 『遠野』出版当時、一部の人々はこれを「ディレッタンティズムの所産」と評した。柳田はエリート官僚であり、専門の研究者ではない。それでも、これまでの著作は研究者としての気概をもって執筆したものであり、それだけにこの評価は不本意であったろう。役人らしいプライドの高さから、憤りも感じたかもしれない。 机上の学問よりフィールドワークを重視した彼にしてみれば、江戸の肝試しと大差ない「怪談会」はそれこそ“ディレッタントの集まり”にしか見えず、研究者としての自負が出席を断らせたものと想像する。 どちらにしても、柳田の舞台は都会の料亭のお座敷などにはなく、地方の農家の囲炉裏端、見知らぬ神や異形の者が鎮もる野や山にこそあったのだから。 腑に落ちない点がもうひとつ。なぜ東氏がこの点について言及しなかったのか───、すでに語りつくされ定説化されているので、あえて触れなかったのか。それにしても影響は皆無とは言えない事柄なので、一言も触れないのは片手落ちである。 怪談ブームの背後に、マスメディアと交通網の発達があることはすぐに見当がつく。しかし、昔からよく言われるように「政治経済の乱れや自然災害などで世の中が不穏になるとオカルトが流行する」という点はどうか。 明治・大正期は、諸外国との戦争・軍事介入と未曽有の大震災が起こった。これらに付随して、急激な経済の変動、軍部の権力増加も国民の生活を抑圧することになる。 柳田も鏡花たちも、安閑として平和な近代を謳歌していたわけではない。その耳に、軍靴の響き、愛する者を失った嘆きの声をはっきりと聴いていたはずである。 妖怪・幽霊は、一面では時代の闇が形を成したものであり、見た者の不安・怒り・哀しみを映す鏡であることを本書を読みながら心の片隅ででも意識しておくべきだろう。

  • 明治文壇における怪談好きたちの相互影響関係

    本書は百物語についての著書のある1958年生まれの怪談専門誌『幽』編集長が、柳田國男『遠野物語』刊行百年に当たる2010年に刊行した本である。本書によれば、明治後期は怪談の復興期であり、欧米の影響を受けた井上円了の妖怪学が議論を呼び、出版業界と結び付いた怪談会が盛んに催された時期であった。柳田國男、泉鏡花、水野葉舟、條野採菊、岡本綺堂らは実はこの怪談会の関係者であり、こうした文壇の怪談ブームの流れの中で、水野が稀有な語り手である佐々木喜善を、稀有な文才を持つ聞き取り手である柳田に引き合わせたことで、『遠野物語』が生まれたのである。したがってこの書は日本民俗学の誕生を告げる記念碑的な書物であると共に、芥川龍之介らに影響を与えた至高の怪談実話集でもあるのだが、近年までこの点は看過されてきた。実際のところ、柳田は膨大な怪談書を濫読し、また旅先で奇談の聞き取りも行い、それらの真偽の鑑定を行っていた。彼は円了による合理的裁断に反発し、怪談の出所の確実さを重視して、純粋な怪談を偽りの怪談から分離しようとしており(この態度は水野や、復刻資料として本書に添付されている「日本妖怪実譚」とも共通している)、その過程で彼は怪談という語の使用に慎重となり、また山人の奇談に関心を絞り込んでいった。著者はこうした明治の怪談好きたちの人柄、交友関係、作品相互間の影響関係を生き生きと具体的に跡付けつつ、怪談文学史の系譜上に『遠野物語』を位置付けるのである。私見では、以上のような本書の論証は説得的であり、『遠野物語』に新たな方面から光を当てる研究である。怪談誌編集者ならではの視点もあり、文章も具体的で比較的平易である。ただし、山人探究から常民探究への柳田の方向転換とこの視点がどう関連してくるのかは、本書からは定かではない。

  • 題名で惑わす非論理的書物

    引用が多く、さらに著者が論理的思考になれていないせいか、言わんとするところが全く分からない書物である。著者の言う怪談の実話至上主義とは何か。虚構や潤色を排して「現在」の「事實」たる怪異現象をありのまま書き留めようとする試み……?。虚構や潤色を排するだけで、怪異現象が、事實であると判断できるのか。話をした者が信頼に足る人物であるから、あるいは、話の場所や日時を特定できるから、事實と判断するのか?「遠野物語には、民俗学のフィールドワーク的態度よりも、怪談実話作家による取材筆録作業としての側面が強い……?」このような方法論からどうして事實という言葉が出てくるのか。さらに、遠野物語を怪談「文学」として考察しようというのであれば、「実話性」などという概念を持ち出す必要はないだろう。本書は、用語の定義を明確にして再構成すべきレベルである。

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