作品情報
アカシヤの大連は、清岡卓行の表現が受賞時の評価と結びついた作品である。
旧満洲の大連を記憶の舞台に、青春の感傷、異郷の風景、家族への思いを重ねる小説。詩人でもある作者の感覚的な文章が、失われた土地へのまなざしを支える。 賞の文脈では、題材だけでなく、語りの密度や時代への向き合い方が注目される。
レビュー要約
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読者の反応は、同時代性と作者固有の語り口を評価する声を軸にしている。作品の背景を知るほど、受賞作としての位置づけが読み取りやすい。
書籍情報
- 出版社
- 講談社
- 発売日
- 1973-01-01
- ページ数
- 422ページ
- 言語
- 日本語
- ISBN-13
- 9784061311497
- ISBN-10
- 4061311492
- 価格
- 107 JPY
第62回(昭和44年度下半期) 芥川賞受賞
レビュー
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アイデンティティ
この作品との出会いは、高校生の頃に使っていた現代文の参考書です。 その参考書は高校1、2年生の時に使ったきりで、その後はあまり開くこともなかったのですが、この作品だけは頭の片隅にずっと残っていました。 なぜ残っていたかと言えば、僕自身、日本人ではない血が混ざっているからなんです。 それだからこそ、忘れられないのでしょう。 その参考書での運命的な出会いを通じて、この本はやっぱり読まねばならないなと確信し、購入しました。 本の内容も買って正解だったなと思えるような興味深い、もしくは素敵な物語です。 この本の中で、一番好きな部分を引用したいと思います。 *本物のアカシヤの花は咲いていなかったが、もし咲いていたら、先生が黒板に色チョークを使って描いたあんなふうな花房の実物よりは、ニセアカシヤの見慣れた花房の方がずっと綺麗だろうと思った。 彼はそのように遠い日のささやかなエピソードを、「ニセ」と言う言葉が不当にも、ある生命の自然な美しさに冠せられていることに対する、一種の義憤を通じて思い起こしていたのであった。どこの愚かな博物学者がつけた名前か知らないが、ニセアカシヤから「ニセ」と言う刻印を剥ぎ取って、今まで町の人々が読んできた通り、彼はそこで咲き乱れている懐かしくも美しい植物を、単にアカシヤと呼ぼうと思った。* 誰しもが、宗教や、国籍だったり、家族との血縁関係、辛い過去…。 親しい友人にさえ言えないような胸の奥の繊細な部分があると思うんですよ。 そういう方の中には、上に書いた引用に少し心を動かされた人もいると思います。 そんな人たちには是非とも読んでほしいです。
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芥川賞受賞作品ですね
戦前の大連の雰囲気が良く出ています。今では極めて少なくなりつつある戦前・戦中派の日本人にとっては懐かしい作品ではないでしょうか。
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良
表示通りの品質でした。
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大連への郷愁
アカシアの花に興味を持ったのは大連の「アカシア祭り」に参加したからです。「アカシア」という響きもちょっと切ないような感じで好きです。歌詞にもよく使われています。「♪アカシアの雨に打たれて・・・」「♪アカシアの花の下で・・・」「♪アカシアの大連を訪ねてきてみたの・・・」など。清岡卓行さんのことを調べたら「アカシアの大連」で芥川賞を受賞されていました。漢字が多くてちょっと難しいですが、私の読みたかった本です。二男が大連に9年住んでいたので、私も会いに5~6回大連へ行っています。作者は大連で生まれ26歳の時に引き上げて来られました。故郷が大連ですが、他国が故郷で、戦争もあり、複雑な心境でした。最初の奥様を亡くされた時、悲しみを乗り越えるために初めて書かれた小説です。大連のことが目に見えるように詳しく書かれています。日中文化交流協会代表団の一員として34年ぶりに大連を再訪した時にも大連小景集として4編の小説を書かれ、この本には合計6編の小説が掲載されています。それらがみんな関連しています。故郷大連に対する複雑な思いが入り混じっています。私が大連に行ったのは息子に会うためだけでしたので、旧ヤマトホテルなどツアーで案内してもらっても深く感じることはありませんでしたが、この本を読んでもっとしっかり見ておけば良かったと思いました。この本の中には中山広場、労働公園、星海公園、東海公園、黒石礁、旧日本人街、旧ロシア人街、金州南山、響水寺などいろいろな所が詳しく書かれています。そこには私も行ったことがあり、懐かしい思いで読みました。アカシアはもとはアメリカ原産でそれがヨーロッパに渡り、ロシアに渡り、ロシアの方が大連に沢山のアカシアを植えたそうです。私が疑問に思っていたアカシアの名前も「ニセアカシア」だと書かれていました。本当はアカシアではなくニセアカシアというところにも切ないものがこみ上げてきました。
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郷愁なう
大連出身の中国人です。自分の町をもっと知ろうと購入しました。 中国人日本人関係なく、大連は私たちの故郷だと思わせる作品でした。
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大連にいってきました
アカシヤの花が咲く大連に行ったので、練習してカラオケで歌おうと思ったのですが、難しい。。。 思い出だけで、我慢。
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同タイトルの、旧講談社文庫版とは、別物と考えます。
詩的で、透明で、静謐な文体。社会的に成功していない自分にもどかしさを感じる一面、世界の喧噪や物質的な華やかさには心動かされることはなく、家族や周囲の人々を静かに見つめている。 清岡卓行は、大好きな作家です。 「アカシヤの大連」が芥川賞を受賞して数年後に講談社文庫から発刊された小説集「アカシアの大連(昭和48)」を古書で持っています。そちらに収録されているのは、「朝の悲しみ」「アカシヤの大連」「フルートとオーボエ」「萌黄の時間」「鯨もいる秋の空」の5作です。大連で過ごした時間から始まっで、その後日本で家族と過ごした日々にこめられた意味を、いとおしむようにたどった、澄んで、暖かく、悲しい小説群です。いずれも、時間的にかなり近い時期に書かれた、私の愛する初期の重要な作品です。カバーを飾る岡鹿之助の絵もこの上なく清らかなノスタルジーをかき立てます。 現在入手可能な、講談社文芸文庫「アカシヤの大連」は、収録された作品が一部ことなっています。著者のその後の再訪時の感慨もふくめ、「大連関係」ばかりのまとまりです。これも購入して読みましたが、後の時期に大連を再訪して書かれた短編小説群は、青春の切なさ、甘さ、かけがえのなさ、と言った部分が少なくなっていています。ほかのレビュワーも気がついていらっしゃいますが、昭和ひとけたの読者が、大陸のノスタルジーを感じることはできるでしょう。「大連関係」ではくくれるものの、小説の意義としては、ことなります。「アカシヤの大連」が芥川賞を受賞した意義、失われたものと現在とのつながりを探る心の動きの、かけがえのなさを示したこととは、違和感のあるとりあわせです。「アカシヤの大連」「朝の悲しみ」は名作ですが、文芸文庫で復刊すべきは、ほかの3作品をもふくむ、初版の講談社文庫版なのです。断腸の思いで、減点です。
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父の若い時代と重なる
私の父も大連で育った。20年前に死去した父がよくこの本を話していた。 旧満州や旧朝鮮半島からの引き上げの小説は沢山ある。悲惨なものだった(宮尾登美子氏にしろ藤原てい氏にしろ) その悲惨さを清岡氏も父も(おそらく何らかの形で)味わったと思うが、それを超越した「清冽さ」、あの大連は「別世界のように美しかった」という記憶。清岡氏も父も語る。 父の死後、どうしてもこの本と父が重なり、読めなかったが、読んでよかった。大連という「あの終戦前後の地獄のような引き上げの中で」 ただ残っていた「はかない一瞬の桃源郷のような町並み」その中ですごした叙情的な青春を描いている。 象徴的な言葉「アカシアというのは本当はアカシアでなくてニセアカシア」。 清岡氏の語る大連はもうない。