作品情報
戦後の家庭の内側から、夫婦と家族の秩序が静かに崩れていく過程を描く。
講談社文芸文庫版で確認できる谷崎潤一郎賞受賞作。講談社公式ページは ISBN 9784061960084、文庫判、ページ数を示し、NDL Search と版元情報でも同一書誌を確認できる。ISBN-10 は 4061960083 として補完した。
レビュー要約
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家庭の破綻を劇的な事件としてではなく、会話や沈黙の積み重ねから見せる点が強い。読者は人物の弱さと滑稽さを同時に感じ、戦後文学の代表作としての緊張を味わえる。
書籍情報
- 出版社
- 講談社
- 発売日
- 1988-01-27
- ページ数
- 295ページ
- 言語
- 日本語
- サイズ
- 10.8 x 1.1 x 14.8 cm
- ISBN-13
- 9784061960084
- ISBN-10
- 4061960083
- 価格
- 1429 JPY
- カテゴリ
- 本/文学・評論/文芸作品/日本文学
妻の情事をきっかけに、家庭の崩壊は始まった。たて直しを計る健気な夫は、なす術もなく悲喜劇を繰り返し、次第に自己を喪失する。不気味に音もなく解けて行く家庭の絆。現実に潜む危うさの暗示。時代を超え現代に迫る問題作、「抱擁家族」とは何か。<谷崎潤一郎賞受賞作品>
レビュー
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小島信夫が書いた傑作。箱入り本。
渋い味わいがある。ユーモアのセンスがいい。
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小島信夫にとってのアメリカ、アメリカ人
江藤淳の『成熟と喪失ー母の崩壊』でかなりのページを使って本書が取り上げているので本書を読む気になった。一読して「アメリカ」あるいは「アメリカ人」がテーマであることはわかるが、その表現はリアリズムでなく構成的であり、わかりにくい。
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唯一無二
少し不穏で情けなくてあやふやで急に怒ったり許したり、というような不思議な文体。唯一無二の作家だと思う。 普通に書いたらこうは書けない。神視点でも主人公視点でもない、小島伸夫視点。主人公にくっついたり離れたりする。面白い。
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60年代半ばの、社会の急激な変化への憂いと諦め
日本のアメリカ化が本格に進み始めた戦後10~20年の時期の、日本社会が崩壊・変形していく姿を、一家庭の壊れていく姿を通して、象徴的に描いているのが本書ではないでしょうか。その暴力的ともいえる変化の要請は、家庭に入りこんでくる米兵ジョージ(情事?)の存在、最新式の欧米風住宅を建てる、などのプロットを通して表現されていきます。主人公のなすすべもなく押し流されていく様子と、したたかに適応して生きていく子供たちの姿が、時代の変化をなにより雄弁に語っているように思いました。 1960年代半ばの、社会の急激な変化への憂いと諦めがこの小説の底に流れているように思います。その意味できわめて同時代的な小説なのでしょう。今読むと若干鮮度は低いです。21世紀には多分書かれない文章なのではないでしょうか? なぜなら現代には現代の問題が存在するからです。それでもあえて今日的な意義を見出すとするなら、本書はわれわれが抱える近代化のもたらした問題の発露を予見していたということになるでしょうか。
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現実が笑劇のように
戦後教育における英語教師たちのドタバタ劇のような滑稽さの中に卑屈な内面の葛藤を描いた「アメリカン・スクール」だけでなく「微笑」にも共通してみられる不可解な行動が闇とも傷ともいえる屈折した人間の内なる世界を照らしだす。だが、表面化するのは滑稽なまでにアンバランスな振る舞いでしかない。 初期作品の「小銃」も衝撃だったが最晩年の「ラブ・レター」もあえて日記風の散文スタイルで書かれた実験的なものと考えられる。そういう意味ではこの作家の人間をみつめる眼差しや社会をとらえる感覚と関心のあり方自体にある意味で小島文学を特徴づける文体の謎があるのではないかと思えてくる。また、文学の可能性としてその様式や手法にも並々ならぬ実験願望があるともいえるのではないか。多くの作品が残されていることもあって読んでいくうちにまた印象が変わるかもしれないが個人的には既にたいへん魅力的な作家のひとりとなっている。 本著は先の短編集「アメリカン・スクール」と「馬」の魅力を合わせもつ滑稽さと悲惨さが混在する笑劇の様相を呈し家族の危うさを露呈する世界を描いたこの作家の傑出した作品といえるだろう。 ここでは妻時子と若いアメリカ兵との情事をきっかけに崩れていく日本の家族のようすが描かれている。家の主人、家族をまもる父(家長)という立場の健気な夫は懸命にたて直しを計るがなす術もなく悲喜劇を繰り返し滑稽なまでに自己を失っていく。 このことは戦後の日本のあり方とその欺瞞性をふまえ戦後派の作家のひとりとしてこのようなアイロニーを込めた形で家族を描いたのではないかと思いたくなる。つまり、滑稽なまでに家族を象徴する父という立場を強調する皮肉が、戦後の象徴天皇という形をもって天皇制を維持し国家体制(国体護持)を守るという欺瞞性を浮き彫りにしているとも考えられるからだ。ここに対米従属の形あるいは永続敗戦の姿としてアメリカ兵アメリカ文化にあこがれるように抱擁家族という崩壊する家族のようすが読みとれるのだ。それゆえに本著は否応なく悲喜劇の狭間で笑劇ともいえる現実が露呈される。いうなれば戦後の現実が笑劇のように。 だが、物語は複雑な要素が複合的に描かれることによって奥深い問題を意識化する様相を呈しているともいえる。いわばアメリカに代表される欧米文化へのあこがれともコンプレックスともいえる屈折した心情が重層的に描かれるのだ。 事件があって三日目、俊介が夕方電話に出たとき、何といおうか、と言葉が見つからなかった。ジョージからだった。きまり文句だが、「ハウ・アー・ユー・ミスター・ミワ」と呼びかけてきていた。俊介は「ジャスト・ファイン」と大きな声で叫んだ。その返答が我ながら滑稽だったが、彼と話す用意が何も出来ていなかったので、そうするより仕方がなかった。(p52) この卑屈ともいえる奇妙な対応のあり方はどういうことか。相手は二十才そこそこの若いアメリカ兵なのだ。 おもしろいことに谷崎潤一郎や内田百閒のころの作家には欧米文化に対して日本の作法や文化に揺るぎない誇りや自信のようなものがあるのだが、抱擁家族の各人にはあこがれはあってもどこか自己喪失ともいえる自信のなさが見え隠れしている気がする。 たとえば家族内での関係性や男女間の関係性、これまでの家族像すべてがいわばアメリカ文化によって相対化されアイデンティティを失ったように混乱してしまうのだ。ここでは理想とする家づくりもそれぞれの考えが交錯する。 夫婦が買った、小田急で新宿から四十分の、奥まったT町の傾斜地を念頭においた設計者の設計は、ガラス張りの家で、冷暖房が完備というやつだった。「いっそうのこと、この池をプールにしたらどうかしら。土どめの壁を利用すればいいのよ。子供が運動不足になるんじゃないかな。海へ出かけていくことを思えば、その方がけっきょく、いいんじゃない。私は山はきらいよ」(p95) アメリカナイズした夢を語りながら抱擁の後、俊介が時子を抱いたときのことだ。 「ちょっと、ここのところ、そっとさわってみてよ」「ここ、ここだね」「いたい!」時子は顔をしかめた。彼女は両方の乳房を彼の前に出した。それを愛撫しながら、「だって、こんなに豊かではっているじゃないか。とてもいいお乳だよ」と俊介は昂奮していった。(p97) 時子に癌がみつかって物語は新たな局面をむかえるが手術は無事に終わり家族も新しい家に移り住むことになる。そこには家政婦みちよの代わりに正子が来ていて息子の良一と関係をもつ。みちよの他にジョージにも家に来てもらうことになるが時子の癌が悪化し再入院となる。やがて、手術の甲斐もなく時子は息を引きとる。 俊介の混乱は家族内だけでなく院内や出入りする他の人々とも絶えず混乱していて悲喜劇をくりかえす。俊介は家族像という形式にこだわるのか再婚の相手を求めて家というイメージを求めているともいえるだろう。 巻末の解説で大橋健三郎は重要な指摘をしている。 夫婦として合理と非合理のやりきれない境目に落ちこんでゆく気配は、滑稽であると同時に深刻であり、近代の合理主義のもたらした相対感覚の極限が日本の家庭を根本から揺さぶっているのを、読者自身に感じさせないではないであろう。(p278) そういう意味においても崩壊する家族の姿を描いた本著はきわめて深刻でシリアスな問題を提起している傑出した小説といえるだろう。
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滑稽で悲惨
大学講師で翻訳者の三輪俊介は45歳。二つ年上の妻と、高校生の息子、中学生の娘と四人で暮らしている。家庭には家政婦みちよの紹介から三輪家に訪れるようになった若い米兵のジョージも入り浸っている。常日頃から妻の時子からやりこめられて肩身の狭い俊介だが、ある日みちよから時子がジョージと不倫した事実を告げられる。 前半は不倫騒動を中心に倦怠期の夫婦の関係性が描かれ、その多くを三輪夫妻の会話が占める。中盤以降はある出来事をきっかけに家族に大きな転機が訪れ、二人の子どもたちや新たな登場人物たちにもスポットが当たる。 本人はいたって真っ当に生きているつもりの俊介だが、妻を中心とした周囲の人間からは冷ややかにみられがちだ。そのことを感じとった俊介が体面を保とうと奔走するほどに滑稽さと情けなさが増す。読者側としても俊介に感情移入するというよりも第三者として眺める立場に置かれ、不利な状況に抗おうとあがく俊介には同情と軽蔑の入り混じった複雑な感情を抱く。 家族間の冷めた関係性の描写が巧みで、だからこそ居心地の悪さも格別である。結婚経験がなくても前半に描かれる夫婦のとげとげしい様子は痛々しい。はたから見れば愚かで滑稽に映る俊介だが、実は俊介をそのように見ている自分だって気づかないだけで、周囲からは俊介よりずっと愚鈍に映っているのではないかと、そんな考えも頭をよぎった。 悲喜劇という言葉がまさにしっくりくる作品である。そのなかでも読書前はもっとコミカルな要素の多い作品かと予想していたが、家族関係独特の重たさもあってか思ったよりかなりリアリスティックだった。各登場人物がそれぞれに現実味をもつが、とりわけ異彩を放つのは家政婦みちよの存在である。結局彼女に踊らされていたのではないかと、どこにでもいそうな一方で底知れなさを湛える魔女のような不気味な存在感が印象に残る。
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ステレオタイプでつまらなかった
友人の勧めで読んだが、つまらなかった。ストーリーもつまらないし、表現も雑な感じがした。発表された当時としてはセンセーショナルだったかもしれないが。 期待しただけにがっかりした。
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日本の戦後精神を写像した名作
この作品の発表当時, 主人公三輪俊介に対する批評家たちの評価は散々なものだったそうである。 どうも魅力がなく情けなくさえない人物だ, 小島信夫氏は何でこんな人物を描いたのか、等と。 しかし今考えると,その批評家たちは自分たちの父権が凋落し, 俊介のように家長の座をアメリカ(=米兵ジョージ)に寝取られていることさえ, 気が付いていなかったのだ。 それ故にそれと知らぬ裡に自己嫌悪を吐露していたともいえる。 そして対比的に言うと, この後の世代は, もはや「父」がアメリカであることさえも気にしない(気が付いていても)。 それはまさに田中康夫の「何となくクリスタル」において 米軍のジープが街を走り去るのに主人公が何の気も留めないように。 この現状に怒りを(屈折的な形ではあれ)抱いていたのは 「限りなく透明に近いブルー」の村上龍ぐらいまでか。 この物語は俊介がそれでも何とか「家」を再構築しようとする悲喜劇である。 しかし俊介もさることながら妻の時子の気味悪さはどうだろう。 米兵ジョージとの「情事」(と名前が読める)の発覚の後, 二人は離婚しないばかりか, 時子はこのような会話を俊介に投げかけ,身を摺り寄せる。 『「もっと? もういいでしょう? ねえ、あんたの方がずっといいのよ。 ねえ、もうきくのを止して、ねえ、やっぱり日本人同志の方がいいのよ」といった。 そこで俊介は時子の身体のあちこちにふれた。 「いろいろなことをしたのよ、あなたもそうしてよ」 俊介の予想どおり不首尾に終ったとき、時子がかすかな悲鳴をあげた。 上半身をおこすと俊介は時子のそばからとびのき、 自分の部屋にかけこんで倒れるように横になった。』 この時子とはいったい誰なのか。 俊介と同じように戦後の我々(の何か)ではないのか。 それゆえ俊介と時子の「気味悪さ」は我々自身に帰ってくるのである。 冒頭の批評家たちと同じように。 時子は癌になり, 抗がん剤の影響でホルモンバランスが崩れ, ヒゲが生え始める。 「俊介」は「父」の役割ばかりか「男」の役割をも奪われようとしているのだろうか。 日本の「戦後精神」をこのような早い時期に鋭敏に写像した名作であると思います。
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