日本の文学賞

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波うつ土地,芻狗 (講談社文芸文庫 とA 1)

大佛次郎賞

波うつ土地,芻狗 (講談社文芸文庫 とA 1)

大江健三郎

障害をもつ息子との生活を背景に、父である語り手が自己の責任と希望を問い直す連作。私的な家族の時間が、神話や文学的想像力と結びつき、目覚めを促す切実な声になる。

家族障害再生

作品情報

新しい人よ眼ざめよは、家族を軸に人間の感情と時代の気配を描く作品です。

障害をもつ息子との生活を背景に、父である語り手が自己の責任と希望を問い直す連作。私的な家族の時間が、神話や文学的想像力と結びつき、目覚めを促す切実な声になる。 受賞作として、同時代の読者に届いた問題意識と表現の特色を備えています。

レビュー要約

  • 題材への切り込み方と余韻を評価する声がある一方、背景知識を求める読者には重く感じられる面もある。人物や状況の描写に作品の個性が表れている。

書籍情報

出版社
講談社
発売日
1988-07-01
ページ数
429ページ
言語
日本語
ISBN-13
9784061960213
ISBN-10
4061960210
価格
1320 JPY
カテゴリ
本/文学・評論/文芸作品/日本文学

人間の、生と性の深層を突き破る苛烈な力篇さりげなく見える“日常”の底に人間の生と性の深層を突き破りかねない苛烈な洞察力を貫入させ、かつてなく新しい“生の原像”を鮮かに描出した富岡文学力作二篇

レビュー

  • 富岡多恵子にしては、凡作か

    「波打つ土地」はだらだら長い。波打っている迫力はありませんでした。 「芻狗」は様々な性と生のオムニバス短編でしたが、富岡多恵子流の捻りや深みが少し足りない感がありました。

  • 前半★★★★★ 後半★★☆☆☆

    とりあえず無害なだけの俗物男の生態を徹底的にコケにしている痛快さ、復讐めいた虐待に、行ごとに手を打ち快哉を叫んでしまう。 「ウラミを少しでも晴らしたい」から小説を書きだしたという著者の言に納得のいく種類の面白さに、ストレスが吹き飛ばされる。右へ倣えの空虚無内容な猿真似借り物言葉で塗り固められた巷の文章の悪臭にたまっていたストレスが、一挙に。 とまあ、前半、馬鹿の大男をクミコにひきつぐあたりまでは痛快極まりないのだが、その辺りから徐々に化けの皮がはがれ、消耗品的えせ文学にすぎないことが明かされていく。同著者の本質を知るに最適の作品かもしれない。 巻末解説の中で加藤典洋氏が、「既成の『男』『女』の役割から登場人物たちを解放しようと試み」た、という著者本人の言葉を引用しており、加藤氏自身の言葉では「それが人をうごかす」ふうなことも述べているが、笑わせないでほしい。 もっともらしく言葉を連ねて加藤氏は誉めそやしているが、いかにも言語学者的でいかにも『言語表現法講義』の著者らしい言いぐさだ。言うほどに優れた小説でもしあるなら、極端に言えばだが、素晴らしいの一言しか出てこないのが本当。著者をよほど超える作家でもなければ作品についてその作品以上の表現ができるわけはないのだから。 一方不出来な作品は不出来であればあるほど言いたいことが山ほど出てきます。逆説風に言えばつまりああでもないこうでもないをごてごて書いているのはそういう作品だからこそか、さもなければ商売上のおべんちゃら口上かのどちらかです。 プロの売り口上にまんまと乗せられる読者は掃いて捨てて埋め立ててしまいたいほどいるだろうが、この作品のもっともらしさに浮かれて崇め奉るまさにそんな低レベル大衆読者に向けて放つ揶揄と侮蔑、それこそがこの作品の真骨頂にほかなりません。著者の本能寺がどこにあったかをオフレコで聞き出したいところだが、富岡多恵子の鋭さはその部分にしか見えず光らず、あとはたてまえ的ポーズで散漫に綴られた小説もどきのなまくら語りがあるだけ。「ウラミを晴らす」部分で見られた鋭く力強い刃は無い。散漫な記述ばかりの、その記述に何か深い物があるかと言えばろくなものは無い。 「細い目が、笑うと消えてしまいそうになるが、ふと何かに目をこらしたり、マジメな顔でしゃべるときの目つきは鋭い」など、100人に書かせれば100人大同小異の素人文章のゴミ捨て場並みで、見飽きた類型は少しも打ち破れていない。本人は打ち破るべくシュールを装って見せたりもするのだが、いかんせん力足らずの支離滅裂と空回りのもがきがあるばかり。その支離滅裂自体が飛躍のツバサを持たない類型でしかない。 現代的恋愛を冷徹な目で描いているふうなことも解説者はつたない筆で言っており、そういう面が多少とも無くないのは事実だが、せいぜいが上っ面を通り一遍現象的になぞるだけのことにしかなっておらず、底にあってしかるべき文学的真理は何も語れていない。空回り上滑り感はそこにある。将に素人作文。 ほんの一例だが次のくだりなんかもほぼその類い。何か突拍子もないことを言おう言おうとしているが、大して突拍子なくもないばかりか想像力および創造力の乏しさを露呈するものでしかない: 「アミコは縄文時代のテニスですよ」 「縄文時代のテニスってどんなのですか」 「走っているだけですよ」 「走れればいいですよ、こちらは走っているつもりでも走っていないんだから」 以上は読後に後ろから頁を繰って適当に拾い上げてみたほんの一例だが、すべてがこの調子この程度の幼稚な上っ調子。著者自身あとから読み返して恥ずかしさに身が縮まなければ物書きとしてそれこそ恥ずかしいだろう。 カナダ・インディアンのセーター柄や人形の謂われのWikipedia的解説を物知り顔に付け加えてみたりもしているが、ちょこっと百科事典でものぞいてみたに違いない安手作りが透かし見えるばかりで、それが物語の血肉には微塵もなっていない。そもそも血肉を貼り付けるべき骨が無いのだからそれも当然だろうが、いよいよ無駄なあがきでしかない。 主人公の共子さんにしてからが、通念を打ち破る女であるかのように飾り付けながら、その実、月並みにちょっと毛の生えた観念のかたまり動物ないしは物体にしかなりえていない。ありていに言えば、衒った衣装でゴテゴテの感性欠如サイボーグにすぎない。他の登場人物も同様の欠格ロボットの集合で、つまり生の人間は一人として描かれていない。だから友人の突然の死も、一台電池切れ、くらいの印象しか与えない。もしそれが著者の本意であるなら「女の役割から」の解放どころではない、人間からの解放でしょう。つまり人間不在の小説で、読む意味とて無い。 言葉に関してはたぶん鋭いとか峻烈とかいった一流の感性をお持ちの方なのだろうが、ただ小賢しい文章があるだけで、小説として書かれている内容は正月の注連飾りにすぎません。何か意味ありげで厳かそうに見せかけてもいるが、実体はワラで編んだ安物飾り細工に過ぎない。まこと観念的。これでは詩人としての実力も推して知るべしだが、そもそも詩人なんてのはその程度のものだろう。。 グリースで固めた髪のように全身気取りでバリバリに固めているが、多少の筆力はあるのだから余計な観念に走りすぎず人間の小説を素直に書けばいいものを、あるいはそっちへもっと精力を向けるべきを、力量不足かそれとも中途半端に賢いだけなのか、あるいは人柄か。もし人柄ならこの類いの女とは口をききたくないものだ。 以下、併録の二つについて: 「坂の上の闇」 ★★☆☆☆ 小説になっていません。 小説は全体で物語をなし、章ごと節ごとに物語をなしていなければならないこと言うまでもないが、それだけでは不足で、各行ごとにも物語がなくてはならない。それがあって初めて名品たるの、前提必須条件だが、その各行物語がこの作品には皆無。もう少し小説らしい文章展開はいくらでも可能なのに、1行とてできていない。ために新聞記事やレポートを読んでいるのと変わりない。 そもそもこの作品はいったい何のつもりで何が目的で書かれたものかもついに不明。たぶん歴史の片隅を掘り起こして小説をと試みたのだろうが、何物にもなっていない。その以前に、小説にするのか歴史読み物にするのか、両者の間でフラフラするばかりで立ち位置すら定まっていない。 気の利いた小説を書いて見せたかったのか歴史新説でも披歴したかったのか、どっちにしても結果は独りよがり自己満足の見せかけファッション詩にすぎません。やっぱりしょせんは詩人にすぎません。 「箱根」 ★★★☆☆ 苦笑するしかない。 「ウラミを晴らす」ために小説を書き始めたということがよくわかる作品だ。中でも主人公のセリフ「人殺しと言われたから人殺しをしただけです」が、その事実と見事なばかり響きあう(この1行のゆえに星1つを加えるが)。 「ウラミを晴らす」の実体はたぶん世の俗物性への唾棄だが、それが自分の俗物性を並行して映し出していることに著者自身は気づいていないのかそれとも強いて無視するのか。ただそのことは、つまり著者の俗物性自体は悪いことではないが、作家なら少なくともそのことは嫌というほど認識していなければならないだろう。そこをえぐりだしたとき初めて小説と呼ぶに値するものが姿をあらわすのだから。 ロマンという「俗物的幻想」を「性」からはぎ取って見せた、そのつもりだろうが、単なる露悪趣味にしかなっていないことにもこの著者は気づいていない。仮に異性愛の正体が性欲そのものだとしても、ほんの香料ほどのそうでないものがたしかに混じっていることを気の毒にも彼女は知らないのだ。香料は香料できちんと描ければこの作品も少しは読めるものになるのだが、この著者には難しい芸当のようだ。 俗物性も人間愛の重要な対象要素なのです。例えば野生動物のmatingを科学的に描くだけでは、いかに”詩的に”筆を凝らしてみても文学にはなりません。シートン動物記とファーブル昆虫記の違いがこの著者にわかるだろうか、聞いてみたいところだ。 ただ、香料を書くうち香料がすべての成分のように錯覚する作家読者があまりにも多いところに彼女はやいばを向けて見せたのかと思うが、その抵抗もまた俗物的類型の域を出ず、そのゆえに読み味が悪い。 俗物性を否定し機械的に排除するばかりでは人間の物語を書くことはできないのです。それを無理にやる結果が人と人とのかかわりをこれ見よがしに歪めてゆがめてしてしまうだけのことで、その歪めは醜悪以外の何物をももたらさない。何でこんなに醜悪で読み味が悪いだけの小説を書きたがるのか心を疑う。俗物を俗物が見下して精いっぱい上品ぶって見せるだけの小説が読み味のよいものになるわけはありません。 この作品を乱暴に一言でまとめて言うなら、単なる言葉遊びにすぎないしたり顔上っ面詩です。こんな観念のもてあそび感覚と気取りだけで書かれた詩や短歌なら世にゴロゴロの生ゴミ塵アクタだが、この意味からの詩人ぶりはさすがのもので、次のくだりにもよく出ている: 「ところがいま目の前に出てきた性欲は、それとあきらかに異なる。発情が、上澄みのところで沸騰していたのに比べると、性欲は底に沈んだものが腐敗し発酵し、気化して固まったように、思える。その期待が球形となり、自分の目の前でいつも宙に浮かんで静止しているように、教子には思える。それは、男が欲しいという感覚でなく、男の全体を要求するという感覚だ。」 と、この調子の空虚な言葉、単細胞見栄っ張り読者はコロリといかれてしまうだろうが、わかる人には悪文の典型見本でしかないとわかるこの手の中途半端カラッポ文章が、そのあとにも続々続く。本人はシュールであろうとかもしているのだが、地面からつながれた腐りかけのワラヒモ一つよう断ち切ってはいない。 ついでに言うと、いろんな人間が場当たり的に箇条書き式に出てくる杜撰さにいたっては、両手を広げて苦笑するしかない。手の施しようもない。 『波うつ土地』と「坂の上の闇」だけを読んでいったん投げ出したのを再び拾い上げて本作を読んでみたのは、「名作」と解説に紹介あったからだが、やはり学者なんかに小説の解説をさせるのが間違っている。文学の才ある人なら学者なんかにならず自分が作家になってるぜ。 以上、「芻狗」も何も混同してごちゃまぜで論じているかもしれません。

  • 大物作家

    すごく醒めている。それでいて思索的だ。 ロレンスの作品に言及している一節があるが、確かに本作は、ロレンスの対極に位置している。ここで描かれている「エロス」は徹底して虚無で、無機質だ。 途中で女の友人が登場するが、これは作者の詩「水いらず」(これも大変良い作品)を想起した。しかも、彼女の運命たるや、えげつないことになっている。 富岡多恵子は他にも「当世凡人伝」という傑作をものにしているが、この作品もやっぱり「当世凡人伝」だと思う。 富岡多恵子の文学には「文学的な飛翔」はついぞ訪れない。 もしバタイユが「文学と悪」で、この作品を取り上げていたら、きっと絶賛していたんじゃないかな、と思う。

  • パンチの効いた女たち

    富岡多恵子女史の作品は、とにかくパンチの効いた女性が多い。 加えて、諦観のような、達観のような雰囲気さえある。 セレブぶった女が考える『女はこうでなくっちゃ(ハート)』とか、 古典的な男性が求める『女性らしさ』などをお探しの方は この本を手に取らない方がよいだろう。 生々しい〈女〉が描かれた「波うつ土地」「芻狗」「環の世界」 中でも「芻狗」は最高作品なのではないだろうか? ちなみに芻狗とは、儀式のときに祭壇に捧げられる藁で作った犬のこと。 作者・富岡多恵子は元詩人だったが、その後小説家になった。 この本に収められている作品たちは、コトバによる表現を失ってしまった その後の人間の様子が描かれているように思う。

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