日本の文学賞

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青春の終焉

芸術選奨文部科学大臣賞

青春の終焉

三浦雅士

小林秀雄論を起点に、近代日本文学、思想、恋愛、歴史意識を横断して「青春」という観念の終わりを論じる文芸評論。文学史を広い文化史の中に置き直すスケールを持つ。

文芸評論近代文学小林秀雄青春

作品情報

近代文学の深層から、青春という時代感覚の終わりを読み解く評論。

三浦雅士の評論集。原本は講談社から刊行され、のち講談社学術文庫にも入った。受賞当時の単行本 ISBN を採用し、文庫版の情報は参照用に残す。

書籍情報

出版社
講談社
発売日
2001-09-01
ページ数
484ページ
言語
日本語
ISBN-13
9784062107808
ISBN-10
4062107805
価格
505 JPY
カテゴリ
本/文学・評論/評論・文学研究/文学理論

「青春」をキーワードに現代文学を読み解く『身体の零度』で読売文学賞受賞の人気の文芸評論家が佐藤春夫、中村光夫、三島由紀夫の論争、ドストエフスキー、太宰治から村上龍まで鮮やかに本質を解明する。

レビュー

  • もうひとつの「教養主義の没落」

    江戸末期から平成までの「青春」という概念の変遷考察。小林秀雄を主たる批評対象として、小林と中原中也の三角関係を「劇」として捉えたり、太宰治は落語家である、など興味深い視点が随所にあり、文芸批評家としての面目躍如。解説の丸谷才一が言うように、文芸批評とは、いわばひとつの「芸」だと思い至りました。

  • 青春って流行り廃りがあるのか!

    青春というのは近代に入って”発明”された概念だという話にまずびっくりさせられました。 如何に我々が青春というものの普遍性に毒されているかということの反証でもあると思います。 本書を読むと、青春という言葉に現代の人間が抱く”青臭い”、”胡散臭い”、”現実感が無い”といったイメージの理由が良くわかります。 要するに青春という概念は一時のブームみたいなものであり、現代はそれが終わった、もしくは卒業した時代なのだなと。 だから、現代から見ると”青春”ブーム真っ盛りの60年代における青春物の映画やドラマはどれも恥ずかしいくらい青臭いのであり、胡散臭いのだなと思いました。 この青春というめがねを通して文学を見ると、味気ないと思っていた漱石や太宰が、より身近に感じられるかもしれません。 ちなみに、現代の青春に変わるブームって何だろう・・・萌えかな・・・?

  • 清秋の終焉

    若い頃、全く興味のなかった分野であったが、年を取ると我が「青春」時代に何があったのか。社会や時代を 動かしていた人びとの考え、行動に興味を持つようになった。心の内はいつまでも「青春」の陰を映像を、大切にしまっておきたい。

  • 高等教育の副読本にしたい「最良の見取り図」

    編集者から文芸批評家に転じた若年の頃から、論の対象の如何を問わず、三浦さんの文章には「私」の根源にかかわる問いの影が濃かった。『私という現象』『主体の変容』『メランコリーの水脈』といった書名がそれを物語っていよう。ゆえにその時期の関心は精神分析や哲学にむかっていた。それがバレエへの親炙に伴って身体論的な趣をふかめ、文学史/芸術史への関心が深まり、『身体の零度』に至ってついには文明論というべき広がりをもつに至った。丸谷才一氏や山崎正和氏の影響もあったかと思うが、もともと『ユリイカ』『現代思想』の編集長を歴任した方なのだから、博識なのは当然である。 ともあれ、いわば内へ内へとひたむきに聴覚を研ぎ澄ましていく営為と、人類の営み全般を一望するまなざしとがひとつになったわけで、これは円熟という語で評するよりない。かくして2000年いこうの三浦さんの著作は、この『青春の終焉』を皮切りに、『出生の秘密』『孤独の発明』と、質量ともに圧巻のボリュームになった。それは文明の全域を概観しつつ、「人間とは何か。」という究極の謎を解き明かす仕事である。 『青春の終焉』は「文学」あるいは「近代」なるものを掴むための最良の見取り図であり教科書である。たしかに地図として縮尺は大きい。しかしそれは粗放ってことではまったくない。筆さばきは大胆に見えても中身はきわめて精密なのだ。すなわちそれは「使える。」ということだ。いうならば、青森から長崎まで歩いて旅をしようという時に、どこかの町の地図だけをもらっても仕方がない。「町の地図」が見たかったら、大学の紀要論文を手に取ればよい。そういうことだ。三浦さんの描いているのは、この比喩でいえば「日本全図」なのである。 もしこの本を「大風呂敷を広げている。」と感じる方があったなら、岩波書店から出た『批評という鬱』を読まれればよい。三浦氏が「町の地図」を描かせても超一流ということがわかるだろう。

  • 思いつきを冗漫な表現で水増し

    「青春」という言葉をキー・ワードに近代日本文学を考え直そうというのが本書の狙いだが、その狙いは失敗していると断ぜざるを得ない。 その失敗はそして、「青春」という語の意味内容を明確にしなかったことに因っている。本書はさまざまなテクスト・文学者が引き合いに出されるのだが、それらはきわめて曖昧な「青春」というものを論じるためであるので、一貫したまとまりに欠けることになった。いろいろ興味深い話題が紹介されるのだが、話題と話題をつなげるのが内容のはっきりしない「青春」である以上、論述に一貫性は出てこない。 また、三浦自身、「青春」というものの扱いに手古摺っているようで、無理に水増ししたような、冗漫な記述が本書のいたるところに散見される。「文芸批評」というものの悪い見本である。

  • 三浦雅士の勝利 〜 批評の最高峰と思う

    10年以上前に販売された文庫本で、今頃感心している私も滑稽なだけなのだが、まあ、初読で感心したのだから仕方がない。作品としての立派さ加減は、'1)射程の広さ、'2)テーマ・視点の斬新さ '3)説得力にあるとおもうのだが、小林秀雄も含めて、以降あんまり、'1)と'3)にいま一つのものが多かったと思う。'2)で勝っているが、いざ論の展開となると、読者がファンでもない限り、どうかなあ、そうとも言えないんじゃないか、という話が多くて、せいぜい、「まあ、そういうところはあるわな」と共感してあげるようなところが多くの批評は多い。そうでなければ名声力に圧倒されて、分かっていないと馬鹿だと思われるから、無理に分かってうなずいているというところだ。だが、小林、江藤、吉本、柄谷、全部、上記'1)と3)はそろっていないと思う。本書は、近代の本質を「青春」という座標軸に見出して、特に日本近代を描いた射程の広さ、そこで取り扱われる作品の分野の広さは驚異的だ。近代文学は勿論、古代中世そして近世文学も扱い、且つ、ドフトエフスキー、バフチン、サルトル、構造主義、フーコー、それに、西田、和辻、唐木など、はたまたルカーチなど、日本西欧の文学思想を縦横に展開。しかも薄っぺらいところはなく、かねがね巨頭と思われていた小林秀雄・太宰治の対質を図り、西行をはじめとした歌論に及び、曲亭馬琴を再発見する。また北山透谷、田山花袋、柳田國男、枚挙に暇がないほどに、文献渉猟、論の実例が多く、それが牽強付会ではないところが見事。上記'1)と3)を充たしている所以だ。元ユニークな編集者であったためか、従来の「文芸批評家」とはどうも方法意識が全然違うと思う。以前の評論家諸氏は、自身の考えや拘りで、穴を掘り続け、作品と化している感じがするのだが、この著者の場合は、編集者として、数多作品に当たっているため、読者と作者と編集者の視点が効いているのか、中々公平かつ辛辣である。思い入れがあると思われる小林秀雄といえども、作品製造者としての欠陥をきちんと押さえて、平気で、さらりとその辺りを語っている。さりとてそこを読ませどころとしているわけでもないだけに、却って説得力がある。江藤淳や三島由紀夫に対してもそうだ。小林秀雄が、中村光夫など、結果的にうまいこと操縦してたかのような配置で位置付ける辺りも、なるほど編集者ならではの目配りで、小林秀雄ならそういうことは考えそうだと納得させられる。単なる作品からのみならず、人柄、当時の状況など多方面からの情報で描き上げる手腕は、思い込みではない「客観性」がある。そしてなによりも、豊富な引用傍証は、読者への魅力ある読書案内にもなっており、興味をそそられることも本書の魅力だ。だが、時として些かtoo muchとも思える引用は、結局もう、そういう作品を読まなくなっている読者を察してのものであり、それこそまさに「青春が終焉」している明確な証拠だろう。ところで、本書を読んで半ばぐらいで、「なぜ女性には『青春』の概念が二次的でしかないのだろう」と思った。実際本書でも「青春」は分けても戦前の「学生」という特権的な地位と重なっていることが示されている。個人的に思うに、女性には、それ以前に「少女から女へ」という圧倒的な変化があるからではないか。そう考えると「青春」の概念を枢軸に展開された近代人文系は、些か、文字通り「青臭い」と言わざるを得ない。でも「あとがき」にそれとなくこの考えに重なる視点が示されていてちょっとがっかりした(笑)。とにかく、小林秀雄以来の自意識と頭脳の格闘に終始した文芸批評とは全く異なる、フェーズを打ち立てた意味でも、私は本書は、モニュメンタルな作品だと思う。

  • 国語の時間を返して欲しい

    1日で3分の2近く読み進んでしまい、もったいなくて最後は読むスピードを遅くした。確かに「普通の読者が読んでおもしろい文芸評論」(丸谷才一氏)。我々にとって中学高校時代の国語がなぜつまらなかったかを明らかにしてくれる本だ。国語はこの国で生きていくために最も大切な道具。その使い方を一番熱心に習得しなければならない時期に、挫折した政治家志望者たちの代償行為としての「青春の文学」などが詰まった教科書を読まされてきたのだ。「文学青年」でない者にとって、国語が疎ましくなるのも当然だ。 また、なぜ国語教科書においては、歴史教科書を舞台にして沸騰した歴史の認識もしくは解釈をめぐるような議論が起きないのか不思議だったが、その原因も本書を読めば氷解する。この半世紀余りいわゆる保守的文化人も進歩的文化人もとともに、「青春」に価値を求め、「近代的自我」に悩んだ軌跡を綴った作品でなければ教科書に掲載するのに相応しくないと思いこんだからだろう。本書が明らかにしたように、かつてほとんどの知識人が「青春」という19世紀から20世紀前半に吹き荒れた病に、かぶれていたからである。 「言文一致体の成立によって近代的自我の表出が可能になった」という常識の無意味さを弾劾するあたりも、誠に小気味良く大いに頷くが、本書の白眉は太宰治の評価(をめぐる文学者たちへの評価)だ。著者は「太宰治は落語家だ」「芸人だ」という。貶めているのではない。からかっているのでもない。だから好きな人はとことんのめり込み、嫌いな人は1行も読まずにイメージで批判して怪しまない。つまり、太宰に代表される(とする)我々がぼんやりと抱かされてきた女々しい「青春の文学」のイメージこそ、まさに「青春」は雄々しく、悩み多く、しかし価値あるものという明治以来評論家諸先生がつくり出した幻想の逆説だった。ぜひ再読したい。

  • 漫談にとって青春とは何か

    青春は歴史とともに終わる。なるほど。しかし青年ヘーゲル派といっても青春ヘーゲル派とはいわない。そもそも青春は青年と同じなのか?青年を青春と読み替えなくては三浦ワールドが成りたたないからそこは良いとして、三浦テーゼが「青春=青年の興亡は産業資本主義の盛衰と軌を一にする」と要約できるのは訝しい。史的唯物論の亡霊が出現しているのは「いうまでもない」。 話芸としては楽屋話が多すぎると「思える。」太宰治は晩年を読めば沢山。大体「事変に黙って処」すことのなかったはったり屋やダーキーしか満足に書けない素人探偵や常に20年先を行くと豪語する自称理論家を歴史の屑かごから拾い出す了見が腑に落ちない。

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