作品情報
読むことが、人物の現在と過去を照らし返す。
講談社の単行本を経て文庫化された中編集。文学への没入、語りの揺らぎ、他者の読みへの距離が重なり、読書家であることの危うさと豊かさを描く。
レビュー要約
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読者からは、題材への切り込み方と人物の感情をすくう筆致が評価されている。一方で、静かな展開をじっくり読む作品として受け止められている。
書籍情報
- 出版社
- 講談社
- 発売日
- 2022-07-15
- ページ数
- 288ページ
- 言語
- 日本語
- サイズ
- 10.8 x 1.2 x 14.8 cm
- ISBN-13
- 9784065285954
- ISBN-10
- 406528595X
- 価格
- 748 JPY
- カテゴリ
- 本/文学・評論/文芸作品
書物への耽溺、言葉の探求、読むことへの畏怖。 群像新人文学賞受賞作『十七八より』で瞠目のデビューを遂げた、 新鋭にして究極の「読書家作家」乗代雄介による渾身の中編集、ついに文庫化。 表題作のほかに「未熟な同感者」を収録。
1986年、北海道生まれ。法政大学社会学部メディア社会学科卒業。2015年、「十七八より」で第58回群像新人文学賞を受賞し、デビュー。2018年、『本物の読書家』で第40回野間文芸新人賞を受賞。著書に『十七八より』『本物の読書家』『最高の任務』『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』がある。
レビュー
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現代における文学の傾向(と対策)
Amazonで購入させていただきました。 著者の乗代雄介(のりしろ・ゆうすけ)さんについては本書奥付によるなら、「1986年、北海道生まれ。法政大学社会学部メディア社会学科卒業。/2015年、「十七八より」で第58回群像新人文学賞を受賞。著書に『十七八より』」とあります。 本書には短編が2つ収められています。 まず表題作の「本物の読書家」、そして「未熟な同感者」です。 他のレビュアーの方々がそれぞれの仕方で手際よく内容をまとめていらっしゃるため、ここはぼくの観点から(他のレビュアーの方と被るかもしれませんが)感想を述べたいと思います。 この2作はもちろん題名が異なっているのですから異なった内容についての小説なのですが、それらの差異よりも共通点について書きます。 ①夥しい引用の数々。 ②そしてその引用が地の文(=物語内容)と有機的に繋がりを見せているということ。 その2点が共通点として取り出せると思います。 参考・引用文献が巻末に一覧にしてありますが、この小説を買おうと考えられている方はまずこの一覧を見たほうがいいと思われます。 というのも、参考・引用文献一覧は作者の文学的嗜好を反映していると考えて差し支えないわけで、そこにサリンジャーやフローベールやカフカやナボコフがあることに違和感を感じたなら、そこで本を閉じることもまた読者の自由でしょう。 ぼく自身もご多分に漏れずサリンジャーの名前をふと目にしてしまったとき、はてどうしたものか、と思わないでもなかったのですが、律儀に本書を1ページ目から読んでみると、巻を措く能わずで作中世界にどっぷりと入り込んでしまいました。面白い。 帯の表側に保坂和志(ほさか・かずし)さんが、「「未熟な同感者」をずうっと読んでる、/これが面白くて面白くて、/読んでも読んでもまた読んでる」と書いていらっしゃって、本書を読み終わったぼくも、宜なるかな、と思っています。 帯の裏側には「書物への耽溺、言葉の探求、読むことへの畏怖」とあります。 本書所収の2作を表象していることばです。 本レビュータイトルにも書いたように、「現代文学の傾向」を知りたい方は読むといいと思いますし、あるいは「新人賞を獲るための対策」としても読むことができると思われます。 オススメです。
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難しかった。今でも理解はしていない。
表題作は老人ホームに大叔父をつれていく主人公と電車内で出会った紳士とかわす読書に関する会話が中心となる。叔父が川端康成と関係があることを主人公は奥の手として隠しながら会話しているが、相手も何かを隠し持っていそう。読書に対する姿勢を舞台にした知的バトルのようで、なかなか面白い。「未熟な同感者」は「十七八より」から「二十四五」へと続く作品。教授が講義中に自慰をする噂とかなかなかしびれるものがあるが、それが何を意味しているのか読み解けなかった。間村季那の立ち位置も理解できず、結論としては難しい作品だった。
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ウィキペディア......
「過呼吸」をわざわざウィキペディアで引用していた。そこで読むのをやめた。
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『傑作』ではあるが『大作』ではない。だが、それがいい。
『十七八より』で第58回群像新人文学賞を受賞した「乗代雄介」による二作目の作品。短編にしてはやや長めの二本を収録している。 表題作は「老人ホームに入所することになった大叔父を列車で送ろうとしたところ、その役目を奪われる」話であり、続く「未熟な同感者」は作中でも早い段階で明示される通り「美人が汚れた手でそうでないものをビンタして終わる」話である(もっとも後篇の語り手は『十七八より』の延長線上の主人公ということで、いろいろと一筋縄ではいかないのだが)。 しかしながら併せて200ページ程の分量であるにも関わらず、文学と評論からの引用の数はおびただしい。この作者と文学的な知識の存在は分かつことの出来ないものらしく、さながら米粒に写経を書き込むが如き偏執さで、この小さな話のことごとくに配している。 が、それも語り方の妙技ということで、「本物の読書家」においては対話する二名と一人の老人の共犯者の密やかさと親密さ、「孤低」の姿勢、そうして最終的には対立と敗北という構図で持って、「知識」に別の意味を与えている。 「未熟な同感者」では「太字のフォントで書かれたテキストは大学の講義の内容である」という位置付けの元(もっともそうできるのも『講義をまとめたノートが、私の家に送り付けられたから(114-115p)』という周到な裏付けが根拠となるのだが)、諸作からの引用、そしてそこから導き出される、ないし推察されうる事象を語る話者がいるということを、矛盾なく可能としている。 どちらの二本にしろ入れ子構造と言おうか、「本物の読書家」は作中の語り手である「間氷」氏が『職業的背徳と個人的趣味に基づく十本目のこの記録(104p)』である、という体裁で発表された小説であり、「未熟な同感者」には語り手より『私はそれを乗り越えるためにわざわざ中編小説を一本立てかけねばならないほどだった(128p)』という記述がある。これにより「叔母の死を『十七八より』を書き上げたことでなんとか乗り越えた私」が大学生時代を回顧して書かれたものである、という背景が推察されうる。つまり、これらのテキストのすべては「乗代雄介」によって書かれているが、ひとつひとつの「作者」は違うのだ。 さて、その上でどちらが優れているかといえば、個人的には断然「未熟な同感者」が好みである。もちろんセクシャルな要素を含んでいることが分りやすく物語を引き付けていることもあるが、語り手が登場人物である「間村季那」を好んでいる、贔屓しているという事実が、記述者が表明する通りに明白である。なにより語り手からの好意があってこそ、物語の結末が――そう、先生の失踪が、つまりは語り手にとっても代償行為となっていることがよくよく分るだろう。だが、そこでピリオドを打つことなく、あとを続けるということが、「本物の読書家」における引用『主人公は実在し、事件は本当に起こったのである(109p)』ともオーバーラップすることになる。穿った見方をするならば、どちらも「文学が、文学的知識が、現に起こってしまった事件を前に敗北する様」を描いた話ではないかと、私は感じた。 実際のところ、作者が本当に『尊敬しているのは死んだ人ばかり(209p)』なのかもしれないが、しかし沈黙はせず、是非ともこの「阿佐美ちゃんサーガ」とでもいうべき連作を書き続けてほしい。我々は読み終えて次を求めた瞬間から完全な同感者になる権利を失うが、好意的な読者にはなれる可能性は残されているはずだろうし、なにより尊敬に値するサリンジャーだって2010年の1月27日に死んでしまっているのだから。
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掛け合いは楽しかった
個人的な嗜好として、サリンジャー、フローベール、カフカってものの見事に外れてる為(ナボコフは割と面白がって読める方だけど)、未熟どころじゃなくて同感点が余り見いだせなかった ↑は自分のせいです 電車の中の掛け合いは楽しかった。が、人払いの為だろうがなんだろうが、つましくささやかな工夫を楽しもうとしている「なけなしの昼飯」を嘲笑うかの様な言い草するやつは、嫌いだ ピンポイントに「精一杯の工夫」が恥ずかしくていたたまれなくなって、自嘲したであろう「おばちゃん」に移入した こういう人は言われた事に「怒り」はしない。すこし哀しくなっただろう
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小説という形を借りて、著者・乗代雄介自身の文学論が展開されている
短篇集『本物の読書家』(乗代雄介著、講談社文庫)に収められている『本物の読書家』と『未熟な同感者』では、小説という形を借りて、著者・乗代雄介自身の文学論が展開されています。文学論が好きな人、乗代という作家が好きな人には堪らない作品でしょう。 例えば、『未熟な共感者』には、こういう一節があります。 「宮沢賢治と同時代を生きた人間にフランツ・カフカがいる。カフカは1883年に生まれて1924年に結核で死んだ。宮沢賢治は1896年に生まれ、1933年に結核で死んだ。二人には死因のほかにも共通点がある。大量に書き、遺稿が残され、評価を得たこと。他にも、家の裕福、病身、菜食、結婚への忌避、ビジネスへの興味、父と宗教、妹愛、自然愛、死後の聖人化、奇妙なほどたくさんの共通点だが、こんなことは同感者の証拠にはならない。しかし、彼らが多くの作品を完成させることができなかったという創作態度に限って、つまり『適正な言葉』を求める仕方という意味において、仮に『同感者』と置くことならばできるかもしれない。それでもやはり、その『同感』には何の根拠もない」。 「ここで、書く者の態度についての意見を二つ、実質一つ紹介する。1907年の日本(の夏目漱石)と、1814年のチェコスロヴァキアで、(カフカによって)書かれた文章だ」として、漱石とカフカの文章が引用されています。カフカの日記の一節が目を惹きます。<(ぼくの)最上の作品のなかの、すぐれた、非常に説得的な文章がつねに目ざしているのは、次のようなことなのだ。すなわち、登場人物が死ぬが、それは彼にとって非常に辛いものになるので、そこに彼にとっての不当さ、少なくとも無情というものが生じ、その結果、少なくともぼくの考えでは、その死が読者を動かすようになる、ということ。しかし臨終の床で満足していられると信じているぼくにとっては、こういう叙述は、密かに言うが一つのゲームなのだ。なぜならぼくは、死んで行く人物のなかに入ってすら喜んで死ぬが、そのことによって計算しながら、死へ集中された読者の注意を、とことんまで利用するからだ。だからぼく自身は、臨終の床で嘆くというふうにぼくが設定している人物よりも、はるかに明晰な意識を持っている。そしてそれゆえにこそ、ぼくの嘆きは可能なかぎり完全なものなのであり、現実の嘆きのように、いわば突然途切れてしまうのでなく、美しく澄みきって流れて行くのだ>。 このカフカの告白には、非常に驚かされました。なぜなら、カフカは読者を驚かせ、惑わせることに生きがいを感じていた生粋のトリックスターだったと、私は睨んでいるからです。
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