作品情報
日本哲学を、近代思想の交差点としてもう一度読みひらく。
田邊元と西田幾多郎を軸に、京都学派の思想を現代思想の視野から読み直す評論。日本哲学の成立を閉じた伝統としてではなく、構造主義やポスト構造主義とも響き合う開かれた思考の運動として描く。 日本哲学を、近代思想の交差点としてもう一度読みひらく。
レビュー要約
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専門的な思想史を大胆につなぎ直す読みが刺激的とされる。論の飛躍を楽しめる読者には発見が多く、厳密な学術書として読むと評価が分かれやすい。
書籍情報
- 出版社
- 集英社
- 発売日
- 2001-03-01
- ページ数
- 400ページ
- 言語
- 日本語
- ISBN-13
- 9784087745139
- ISBN-10
- 4087745139
- 価格
- 3590 JPY
- カテゴリ
- 本/人文・思想/哲学・思想/歴史・学派/東洋思想/日本/一般
プラトンに重要な示唆を受けた日本思想の巨人・西田幾太郎と田邊元。二人の対立点に肉薄し、先進的だった田邊の思考を綿密に追いながら、日本語による哲学的思考の潜勢力を検証。梅原猛氏絶賛。第12回伊藤整文学賞受賞作。
レビュー
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むずすぎ。わからん
たぶん、中沢さんも分かってない 「むずかしくて分からない。分からないから何か高尚なものだと考える。それって最悪なことなんです。それだけは避けないといけない。なにがあっても。」 と言ったのは加藤典洋である。 だから、中沢さんがわけのわからんことゆうてるときは、 「まあまあ、そんなことより、中沢先生の初エッチはいつやったんすかあ」 ときくことにしよう 全会一致で まあ、 「どうなるか分からんところでも一か八かで賭けんといかん。そうでないと、それまでの自分がまったく無意味になってしまう」《ファインマン博士》 っていう言葉もあるわけやけどさ それにしても中沢ちゃんはひどすぎるわなあ 分からんなら分からんなりに、分かるとこまでで止めとけよ というか、自分なりに理解した言葉で書けよ というか 目の付け所は良かったんやけどなあ けっきょく、 この本は、オモロイ部分は満点で わけのわからん部分はマイナス50点や せやから、プラマイ50点や ありがちな結論
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中沢と田辺との本当の出逢いは、『懺悔道の哲学』にある。
中沢氏と田辺との本当の出逢いは、『懺悔道の哲学』にある。田辺は、わが祖国の惨憺たる状況の中で、 すなわちヒロシマ・ナガサキの惨状、東京大空襲による焼け野原の化した首都東京、まさに 「敗北を抱きしめて」(ジョン・ダワー)渾身の力を奮って書かれたのが『懺悔道の哲学』であったのだ。 『懺悔道の哲学』の序文を読んでみても、その当時の田辺の哲学者としての悲痛な思いが切々と伝わって くるではないか。ここに「敗北の哲学者・田辺元」と「敗北の宗教学者・中沢新一」の決定的な“魂のふれあい” があったのだ。 しかしながら、『懺悔道の哲学』の田辺は、その序文において「自分の抱えているのっぴきならない問題」を、 愚直なほど誠実に吐露したのに対して、中沢はそのプロローグにおいて「敗北の宗教学者」として 「自分の抱えているのっぴきならない問題」を誠実に吐露することはしなかった。ここでも中沢は、 思想家として田辺に敗北したのである。 中沢は、田辺の決定的な著作である『懺悔道の哲学』については、353p〜357pにおいて、多少とも 述べているが、その田辺をして思想的大転換の最大の契機をなした、親鸞の思想『教行信証』については、 まったく言及することはしなかった。「仏教が好き」なはずの中沢が、「死者のたましいと対話をくりかえす二年間」 の中で、親鸞の『教行信証』は対話のテーマにならなかったのだろうか。 「懺悔とは、私のなせる所の過てるを悔い、その悪の償い難き罪を身に負いて悩み、自らの無力不能を慚ぢ、 絶望的に自らを抛ち棄てることを意味する。」(『懺悔道の哲学』序文)(同) 「このような懺悔における転換復活は、正に親鸞がその他力法門において、浄土真宗を建立した徑路にほかならない。 私は親鸞が仏教において進んだ途を、偶然にも哲学において踏ましめられることになったのである。 そこでこれに想到すると同時に、私は彼の【『教行信証』を懺悔道として読解すること】に力を注いだ。 ・・今や私は、自ら懺悔道として哲学を他力的に踏み直す機会に、『教行信証』を精読して、始めてそれに対する 理解の途が開かれたことを感じ、偉大なる先達として親鸞に対する感謝と仰慕とを新たにせられるに至った。 ・・私は、今や親鸞の指導に信頼して、懺悔道を推進せしめられるに至ったことを、他力の恩寵として感謝せずにはいられぬ。」(同) 「・・・従来、私の唱え来たった「種の論理」に基づく社会存在論に新しき根拠を与えることは、懺悔道が哲学として、 十分具体的なる展望を有することを確信せしめるに足りた。今や私は、新しき安心をもって再び哲学へ帰ることができたのである。」(同) 中沢氏が、自ら目指そうとした田辺の「種の論理」の解明においてさえも、『懺悔道の哲学』の徹底的な解明、 すなわち田辺の「種の論理」を再生せしめた親鸞の『教行信証』の果たした決定的な意義の検討は不可欠なはずではないか。 中沢と田辺の「よき出逢い」の核心部分に触れることを回避したところに、中沢の思想家としての「不誠実さ」が 垣間見られる「力作」ということになろう。『フィロソフィア・ヤポニカ』においても中沢の頭脳の優秀さは、 田辺哲学「種の論理」の解明においてもいかんなく発揮されているが、西田・田辺にあって中沢にないものは、 その愚直なまでの「誠実さ」である。
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忘れられつつある田邊元の思想に光を当てた功績は十分評価されていい
一言で言うと、「難しいけど面白い」本である。ただ、私の感じているある種の感動や達成感を、読者諸氏に一言で要約して説明するのが難しいことをお断りしておく。元々の田邊の文章があまりに晦渋なせいもあるが、本書の中間部など文意を追うだけで大変な箇所もあり、正直理解が及ばない部分もあった。中沢の著書の中でもかなりハードな部類に属するだろう。私も初版が刊行されてすぐ購入したものの、7年間本棚で眠らせていて漸く手に取った次第である。 というのも、田邊元の思想が社会学・現代数学・量子論・ライプニッツ・ギリシャ哲学・仏教思想、果てはマラルメの詩など非常に多面的な領域から紡ぎ出されているからで、それでも最終的に田邊の思想が「愛」の問題、つまりそれ自体は自立=孤立している個(人)がどのようにして連帯し、愛の共同体を作り出せるのかといった意外にナイーヴかつ切実な問題に向かっていたことを示唆している。 そこにたどり着くまでに、「種」=「個体」=「類」の関係性など、日常生活を支配している同一性の論理では説明出来ない社会構造や生命現象を、いかにして思考の対象にしていくのかが縷々述べられている。現代数学と量子力学と生命哲学がリンクする点などは大変に刺激的であり、種から固体が生成されてくる仕組みなどは、最近読んで魅了された生命学者の三木成夫を髣髴とさせる。 京都哲学は、一般にカント、ヘーゲル、ハイデッガー、あるいは禅といった純粋哲学の系譜で語られることが多いが、田邊の思想に関していえば、むしろ人類学や構造主義、ドゥルーズ=ガタリなどからアプローチする方が親和性があるようだ。 「厳密に学的か?」という点で、中沢新一の著作に疑念を差し挟む人が多いことは知っている。中沢の手法は、自分の直感に従って興味のあるテーマをジャンル横断的につなぎ合わせていくというもので、飛躍や類推が目立つ分、成功したときの爽快感や触発力は相当なものだが、失敗しているケースも少なくなく、(本書ではないが)ただのこじつけにしか聞こえない駄文も時折散見されるのは事実だ。 それでも、すこぶる読み辛く難解極まりない田邊元の思想に光を当て、それを万人にわかりやすく説明していることだけでも十分評価に値するし、西田幾多郎も含めた京都哲学が何を目指そうとしていたのかを現代的な問題意識で捉え直している点は新鮮でもある。 現実的な影響力はともかく、理性をここまで極限的に酷使して、抽象的だがスケールのでかい思考をしていた日本人が戦前にいたことだけでも驚きであり、ある種の感動を覚える。翻って現代の日本人の知的怠惰を痛感せざるを得ない。
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これはこれで好いと思う。
中沢新一とかハイデカーが好きな方には推薦できる 本です。 田辺元の哲学や姿勢、人生も大変興味深いですが、 田辺元という哲学者を媒介にして、中沢はいつもの様 に彼自身の思想を表したかったのだろうな.. そういう素直さが彼らしいな..、と私は感じました。 京都学派の論理弁証法と、中沢の表現法には共通点が 多いですので、中沢好きの方も田辺元や西田幾多郎の 姿勢には共感できるのでは..と思います。 この本を読んだ後、田辺元の著作を読むと、逆に.. 中沢新一という人のことが また少し見えて来ます。
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難しすぎて断念
面白そうなんだが、内容が難しすぎて断念。通勤途中に読むには疲れる。いつかはちゃんと読みたいが。残念。評価はできないのですが、星4にします。
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