日本の文学賞

← 受賞作品一覧に戻る
人生の親戚 (新潮文庫)

伊藤整文学賞

人生の親戚 (新潮文庫)

大江健三郎

耐えがたい悲しみに遭遇した人間が、その事実をどう受けとめ、どのように生き直し得るかを問う長編小説。大江健三郎らしい倫理的な問いと、家族や共同体へのまなざしが交差する。

喪失家族倫理生の再生

作品情報

悲しみを抱えてなお生きることの可能性を、静かに問い続ける。

『人生の親戚』は、一九八九年に新潮社から刊行され、のち新潮文庫にも入った大江健三郎の小説。苦しみを抱える人間が他者と関わりながら生を考え直す過程を描き、伊藤整文学賞の対象となった。

レビュー要約

  • 重い主題を扱いながらも、悲しみの受容と再生をめぐる問いが深く残る作品として読まれている。大江文学の倫理性に関心のある読者から支持される。

書籍情報

出版社
新潮社
発売日
1994-07-28
ページ数
267ページ
言語
日本語
ISBN-13
9784101126173
ISBN-10
4101126178
価格
2636 JPY
カテゴリ
本/文学・評論/文芸作品/日本文学

悲しみ、それは人生の親戚。人はいかにその悲しみから脱け出すか。大きな悲哀を背負った女性の生涯に、魂の救いを探る長編小説。

レビュー

  • 魅力的な題名に惹かれて読む大江文学の結晶。

    大江文学は今まで何冊か読んできましたが、この本は初めて電子文学で読み始めました。スマホで読む大江健三郎さんの作品を、ブックマークをつけながらどんどん読み進めています。淡々とした文章にもかかわらず内実が伴っていてとても面白いです!最近、亡くなった大江健三郎さんの文学を、読破して、心の栄養を、培おうと思っています。

  • 小説もmysteryである

    ・知的障害のムーサンと肢体障害者道夫兄弟の唐突な自死とその母の再生を作家Kが「自分の物語」として語る。二人の自死は母まり恵にとって理解可能なもの(インテリジブル)たりえるか?それが本作のテーマである。 ・たとえば信仰により2人の死の理解=意味づけが出来るかなど。しかしまり恵には2人の死を「理解」できる可能性は考えられない。Kもまたそう考えている。 ・2017年と2024年に10代の2人の息子を自死で亡くした作家イーユン・リーは母としての自分の状態を「奈落の底にある」という。(『自然なものはただ育つ』)奈落には終わりはなく、むしろ奈落の先にまた奈落があることもあると。「悲愁(グリーフ)というのは終わりのあるもののことだ。終わりのないものをグリーフとは呼べない」。リーはみずからの経験に悲しいという形容詞はつかわない。 ・2人の兄弟の不条理な自死は永遠にまり恵のなかにある。現実生活は現実生活として続いていく。奈落と表舞台を橋渡しするものはない。まり恵の人生はまり恵だけのもので、死を「理解」するためにあるのではない。別の言い方をすれば「アレ」には「終わりがない」 ・その理解不可能性はセルジオ松野の登場で揺らぐ。「聖女の役を担ってくれ、演技でいいから」。セルジオはなんとか不条理な死の経験を意味づけ、まり恵さんの人生の理解可能性を回復しようとする。まり恵はその役回りを演じ、聖女としての崇敬すらうけるようになる。しかしそれは演技であり、まり恵が2人の死を理解することではない。 ・とはいえ、セルジオ・松野から「(二人の)死の順序に神があらわれていたんじゃないか」と言われた際のまり恵の動揺をどう考えればよいのだろうか? ・「mysteryは現に顕われていたのでないでしょうか?」「私はわっと泣きながら跪きそうになりーーーなにくそ!なにくそ!と自分を励ましてもちこたえ・・」 ・そこでまり恵が目にしたグァアタルーペのマリア像と永遠のような夕陽。奈落には奈落なりの美しい光景があるのかもしれない。 ・テューター小父さんは「感知できるものはテンポラリーだ」というが、まり恵さんにとっては感知できるものが同時に終わりのないものである。タイムレスなもの。それは理解できないままだ。この二律背反をめぐってフラナリー・オコナーは感知できるものは理解できるものだという。そこにはオコナーの受肉信仰がある。受肉により理解不能なものが理解出来るようになったはずだと。信仰をもたないまり恵さんには感知できるものが理解できるものにはなり得ない。にもかかわらず、信仰をもたない多くの読者が悲惨をそのまま提示して置き去りにするオコナーの作品にすくなからぬ救済を感じるのはなぜだろう?そこには小説=文学のもつある種の力が(受肉信仰を介さず)関与しているのではないか? ・Kの次の言葉は小説家が感知できるものにじっと耐え、書き続けることで、小説を受肉信仰に代わる何かに変えるmysteryが潜んでいるのではないかと考えさせられる。 ・「自分の物語として人間世界を表現することが、それをintelligibleなものだとして自分で捉えていることは意味せず、しばしばその逆であるのを、僕は経験にたって知ってる。・・僕の書いてきた自分の物語は・・・最後の病床のまり恵さんを提示することをのみめざしてきたように思える・・」 ・文学もまた、言葉にできないなにかに「肉」を授け、人間にとって理解できぬものを理解できぬまま引き受けることを可能にする。それを mystery と呼んでも大きく間違えはしないだろう。

  • 悲しみの意味とイメージと・・・

    巧みに書かれたストーリーテリングの作家のフィクションの世界に身を委ねることによる心地よさ(悲惨な運命をたどる主人公に感情移入するなど)といったありきたりの文学作品を読むことの醍醐味などこの作品には微塵もなく、逆に読みすすめていくうちにどんどん息苦しくなっていきました。その息苦しさは、悲惨な状況にあるまり恵さんに感情移入したからではなく、”悲しみ”というものが今まで自分がイメージしていたものとは違っていることに気付かされたからかもしれません。難解さとは違った次元で読むのにかなりのエネルギーを要する作品です。

  • 励まされはしない

    この小説は、読んで励まされた、とか救われた、などと思えるような小説ではありません。この小説は読む人を励ますために書かれたものではないからです。人生において、本当の「耐え難い悲しみ」に直面した人は、この小説を読んでも励まされはしないでしょうから。そのことをまさに、著者はこの物語で伝えようとしているのです。 例えば、物語に登場する倉木まり恵さん(肉体に障害を抱えた長男と精神に障害をもつ次男、二人の息子を同時に自殺によって失った女性)のような、本当につらい体験をした人がこの本を読んだとしても、励まされることはないでしょう。そして、この物語で語られるのは、そのような本当に個人的な深い悲しみのことなのです。 この小説を読んで励まされたと感じた人は、倉木まり恵さんが自分よりもはるかに悲惨な目に遭っているからこそ励まされたのです。なぜなら、倉木まり恵さんを哀れだと思ったからです。倉木まり恵さんを哀れみ、懸命に生きようとする彼女を見て(読み取って)同情し、自分も頑張らねばならないと思ったのです。

  • 悲しみの生み出す救い

    倉木まり恵という、ひとりの聖女を描いた作品。大江の作品で女性が主人公となるのは、本作が初だという。彼女は、キラキラと輝くような人生を生きてきた。それだけに、現実の暴力性によって経験させられた巨大な悲惨さともいうべきものが、一層、重いものになっている。若くして悲しみとともに一生を終えた彼女の周りには多くの癒やしや赦し、救いがあった。それによって、徐々に彼女は恢復していく。女性の悲しみがただひとりの悲しみだけで終わっていないところが「人生の親戚」と呼ばれる所以であり、読者もそこに救いを見出すことができる。「悲しみとともに生きても良いんだよ」と、優しく話しかけられているような気がするのだ。しかしその一方で、身近な日常の中で生き生きとしていた彼女が聖性を帯びるにつれ、どこか手の届かない遠い存在になってしまうような寂しさも感じられる。 尚、Kindle版には解説やあとがきの類が一切付いていませんので、ご注意下さい。大江の作品は重要なものでも紙の本は絶版になりやすいようで、とても残念。本当はKindleではなく紙の本でも読みたかった。講談社から『大江健三郎全小説』が出たので、そちらで読むしかないか…。

  • たんぽぽ

    年齢のせいで文庫本は字が小さく読みづらいが これは単行本なので読みやすく、古さをかんじさせないきれいな本でした。おかげで気持よく、ゆっくり味わいました。

  • 「自分の再建」は、如何にして行えばいいのか。

    初めての大江健三郎作品。 想定していたよりもだいぶとっつきづらく、何度も挫折を繰り返して、なんとか読み終えた。 どうしようもない悲しみが突如襲ってきたら、人はどのように生きていけばいいのか? その1つの解を、まり恵さんという人物の人生を用いて描いた今作。 作中では「自分の再建」という言葉が使われているが、この種の考え方、リテラシーは時代を越えて現代にも必要な視点だと強く感じた。 作品が書かれた当時の人々がどのような暮らしをしていたか、詳しく知っているわけではないが、悩みや悲しみの種類はさほど違いは無いと思う。 わたしたちは、悲しみに直面した際、なんとかのその悲しみを「希釈」しようと試みる。それがセンチメンタルに陥るもとになる。 まり恵さんのように悲しみを携帯して生きていくことは、ひどく困難な道だと思う。だが、人間誰しもが抱えるであろう数多の悲しみへの対処法の一つとして、頭の片隅にはおいておきたい。

  • 買いです。

    倉木まり恵という、およそ考えられない不幸に見舞われた女性を、「Kさん」と作中呼ばれる、作者と思しき人物からの、「自分の物語として了解できるよう」な視点で描いた作品です。 いつ以来かの大江作品でしたが、やはり初期の作品、文庫や単行本は実家の書庫に仕舞い込んでも、新潮社の全作品は常に手近にあるので、本作の文体は、物分かりがいいと言いますか、体力が落ちたのかと言いますか、少し肩透かしを食ったような違和感を絶えず覚えました。しかし、ひとりの女性を正面に据えて描く決意であったり、題名の意匠であったりは、掛け値なしの「文学」の読みごたえで、やはり侮るまじ大江健三郎と感服しました。

関連する文学賞