書籍情報
- 出版社
- 新潮社
- 発売日
- 1995-09-01
- ページ数
- 390ページ
- 言語
- 日本語
- ISBN-13
- 9784104077014
- ISBN-10
- 4104077011
- 価格
- 2954 JPY
- カテゴリ
- 本/文学・評論/文芸作品/日本文学
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レビュー
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これから読むのが楽しみです
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私小説か自伝か
文庫本として横文字は珍しく、それ故にfrom left to rightが題名となり、私事として左から右への移転を意味するものであろう。水村氏と同様、子供の頃に米国滞在経験を持ち、しかもニューヨーク近郊であったこともあり、小説の内容の多くは馴染みのある題材であり、それに関し多くは共感できるものであるし、また多くは体験を異にし、興味深いものである。水村氏またははそれ以前に思春期から海外で体験した場合、多かれ少なかれ日本人としてのアイデンティティが浮き彫りされ、姉妹の対応は対比しているが、結局は日本に帰趨することになっている。アンビバレンスが余韻として尾を引き、読者層の反響もアンビバレントとなる小説であろう。
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日本語と英語の間で引き裂かれた自己
「母の遺産」、そして美苗氏のお母様水村節子氏が書かれた「高台にある家」を読み、その2つの間に一家に起きたことを知りたくてこの本を手に取りました。「高台にある家」では節子氏が最初の夫と離婚することが暗示されて終わります。そしてこの「私小説」では、2番目の夫の海外転勤にしたがって一家でアメリカに移り住んだあたりからが描かれています。 まさにタイトル通り「私小説」です。女流作家に多いですが柳美里や岩井志麻子など、自分の人生をほとんどそのまま書いているとしか思えない作家さんがいますが、美苗氏のこの小説はたぶん一片の創作すら入っていないと思えます。 姉妹の電話から始まります。「今日は何の日?」という姉、奈苗の問いかけ。「え!もう20年!?」「そうよ」「私たちの亡命から20年・・いえ、亡命じゃなくて脱出にしよう、その方がいいわ、脱出から20年!」と。一家がアメリカへやってきたのは次女の美苗が12歳の1963年、それからもう20年もたってしまったと姉妹はため息をつきます。日本がまだ経済的に豊かになる前の時代で、アメリカでも日本人がめずらしかった頃です。 物語はこの夜から、同じ夜に戻って終わります。その間、美苗氏が20年間を行きつ戻りつ過去を振り返り、起こった出来事や感じたことを書いていきます。 時系列的にも前後して時間や場所が飛び、一見とりとめない回想のようでわかりにくいかもしれません。が、過去から現在に至るすべてのことが現在の美苗氏を形作ったものになるので、自然にすっと入ってきました。 一家が越したのは中産階級のユダヤ系や白人が多いニューヨーク郊外の住宅地です。日本企業からの派遣なのでそれなりに恵まれた生活だったことが伺えます。それでもだんだんとわかってきたのはアメリカにいる異邦人としての立場でした。最初親切にされたのは、中国人や韓国人の区別もつかない人々から「かわいそうな貧しいアジア人」だと思われ哀れまれていたからとか、ある時、colored ”有色人種”という言葉を聞いて、黒人を指すと思っていたその言葉が、whiteにとって異質に見える人間すべてを呼ぶ言葉で日本人も含まれていると知った時のショックが印象的です。 姉の奈苗は過剰に適応しようとして肌を小麦色に焼き露出して、早く英語をおぼえ、母親が「すっかりアメリカナイズされちゃって」と嘆くくらいでした。そんな奈苗は、今でいう合コンのようなもので彼女のために呼ばれた男性が韓国人だったことにショックを受けます。漠然と来るのは”アメリカ人”の男性と思っていたら、おせじにもステキだとは言えない韓国人が奈苗のために用意されていた・・奈苗は帰宅して号泣します。 美苗は冷静に、もしかしたらお相手も日本人とセッティングされていやだったかもしれない、けれど最後までそれを出さすに紳士的に振舞ったとはたいしたものではないかと考えます。 そんな美苗は、姉とは対照的に英語に拒否反応を持ってしまい授業が理解できず、家にあった日本文学全集に浸る日々を過ごすことになります。 美苗氏は書きます。「日本が好きで日本食が好きで日本人が好きで日本語が好きで、いつの日か日本に帰り生き始めようと思っているうちに、こんなにも長い間になってしまった、アメリカ社会の成員になるのを回避しながら、日本に戻ることを先送りしてきた、今まで何をして生きてきたのか、けれど今帰っても、実際の日本はたぶん自分の頭の中にある日本とは違う、日本に帰るのが怖い」と。 ボーイフレンドは日本に帰国してしまった、父親はぼけてしまい施設にいる、母親は恋人とシンガポールへ行き、その時にあっさりと家を売り払ってしまった。帰る家はもう日本にもアメリカにもどこにもない・・。 いわゆる帰国子女の問題は知っていましたが、どうしょうもない不安とたよりなさがこんなに強烈だというのは驚きでした。常に自己分析せずにはいられない内省的な自意識とその息苦しさ、自分が立つべきところがわからないというその不安定さがひしひしと伝わってきます。 また、皮肉なことにと言うべきか、帰国子女だったからこそ保たれたかもしれない繊細な日本語が大変美しいです。 かっちりした起承転結やわかりやすいストーリーが読みたいと思うと期待はずれだと思います。決して楽しい本ではないし、むしろ暗く重いです。そしてたぶん男性にはつまらないのではないかと。ここまで自分の弱さや情けなさをさらけだすことは、男性にはただの愚痴にしか見えないかもしれません。それに、当然外から評価がくるわけですから、かなり勇気がいったことでしょう。 今は英語で話す方が自然になってしまった姉の奈苗と、英語が苦手で主に日本語で話す美苗の電話が合間合間にはさまれます。奈苗の言葉はそのまま英語で書かれているのですが、ここはやはり高校生くらいの英語力がないと意味が取れないと思います。奈苗の気持ちも大切な要素なので、ここがわからないとちょっと残念なことになります。 英語に抵抗があったり、気取っていると感じてしまうといい印象は持てないかもしれませんが、まさにこの描き方が2つの言葉どっちつかずの宙ぶらりんな状態を表していると思えます。 この後、詳しいいきさつはわかりませんが「母の遺産」では姉妹はすでに帰国し結婚しています。その間にどんないきさつと決心があったのか抜けている部分もいつかぜひ書いていただきたいです。 また、美苗氏は祖母の物語も書きたいと思っていらっしゃるそうですね。戦前に芸者で不自由な生を強いられた祖母、その娘である美苗氏の母も庶子として思うにまかせぬことが多くあり大変だったようです。女3代の物語をさらに綴っていってほしいです。
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哀しく、愛おしく、
この小説を最初に読んだ二十代の時にはわからなかったことが、今になって身に染みてわかり、ただただ哀しかった。それは、失われ、遠ざかっていくものに対しての哀惜であり、親との関係の困難さ、そして孤独である。特に孤独は、百年前に漱石が予見した現代人の寂寞とした孤独がいよいよますます手に負えないものになってしまっていることに、恐怖すら覚える。自由は素晴らしい、でも自由になるほど、なぜか人間は駄目になっていく。自由を扱うには、人間はあまりに動物的すぎるのだ。 主人公の美苗の姉・奈苗は、その典型といえるだろう。自由を謳歌し、その結果、孤独になった。でも本当は自由ではなかった、自由に憧れ、自由を求めたものの、自由への渇望からは自由になれなかった。だからアメリカへの片思いはやぶれて、今度はヨーロッパへ向かい、やがては日本にすがるように戻っていくのかもしれない。そもそも、自由の国アメリカは幻想である、その自由は一部の白人のためにあり、有色人種は彼らの自由を下支えする労働者にすぎない、と言ったら言い過ぎだろうか。 奈苗には同胞がいる。自由より同胞を選べばいいのだ。実際に、奈苗は同胞と付き合ったりしている。同胞は自分の映し鏡だから、否応なく自分と向き合うことになり、自分に幻滅し失望する。そうして奈苗は同胞とも別れてしまう。それは結局、日本に帰ってもかわらない。 でも、自由を求めて孤独になるより日本に帰った方がましだとしても、それでも奈苗がアメリカに残り、へばりついて生きていこうとするなら、奈苗の生き方は頑固だが美しい。理想に生き、理想に敗れ散っていく。どうせ最後はどんな人生も散っていくのだから、とことん追い求めればいいのだ。ヘンに妥協して、人生を悟ったような顔をしてこぢんまりと生き死んでいく方が惨めだ。 だから、この小説の最後は素晴らしい。アメリカに独りで残る決心をした奈苗に感動した。奈苗には彫刻があるのだ。 姉妹の母親もまた自由を求め、自由という幻想に溺れるが、この小説を読むかぎり、この女性は他人に用意してもらった恵まれた環境で自由という幻想に溺れているにすぎないのだ。本当の過酷さは、感情を超えて、むしろ人を茫漠とさせる。好いた惚れたは相手が人にせよ、文化にせよ、所詮感情でしかない。 美苗は、まだ夢の中にいる。もちろん夢に見る日本がもう存在しない日本であることを彼女は知っているが、小説を読むかぎり、日本に帰ることに対する、またそれを奈苗に伝えることに対する、煮え切らない逡巡に酔っている。美苗に余裕を感じるのは、美苗の立場が追い詰められていないからか。むしろ選択肢があり、もう若くないと言いつつもまだ三十すぎである。美苗が自分の負の部分を語っていないのも、この小説内の公平さを欠いていると思う。美苗は優秀で、バランス感覚もあり、浮き世を生きていける人だろう。日本人(東洋人)であるためにアメリカで受けることになる日常的な差別の痛みも、アメリカに真正面からぶつかっていく奈苗に比べたらたいしたことない。やはり、主人公の美苗は余裕なのだ。それを賢いといってしまったらそれまでだが、ぼくはそうではないと思う。むしろ臆病なのだ。その臆病さに美苗は日本(近代文学)を隠れ蓑とすることで直面せずに済んできたのではないか。やっぱり、ぼくは美苗より奈苗に共感を覚える。 もし作者が「私小説」を書くために自分と厳しく向き合い、自分の醜い部分をさらけだしたなら、★五つだった。最後の方の、美苗が実は内心では奈苗に日本に戻ってきてほしくないと母親と同じように思っていたのだと告白したのは、告白としてはまだ甘いと思う。美苗は奈苗をもっと憎み、もっと嫌っていたのではないか、だからこそ愛してもいたのではないか、母親にしてもそうだ、そういう部分の描写こそを作者の豊富で巧みで優れた日本語を駆使して文学的に描くべきだったのではないか。
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つまらない
物心つかないうちに外国(アメリカ)に来れば、アイデンティティに 苦しむのは想像がつきますが、この小説はそうした苦しみを共有する 姉妹のお喋りに終始していて、「こんなのを読者に読ませるかなあ」 と失望しました。 主人公はアメリカ名門大学の博士課程に在籍しているという設定です が、学生生活の描写はあまりにお粗末なうえ(友人が口頭試問で発狂 したとかしないとか)、ほんとにこの主人公たちはアメリカで生活し ているのかな、と思うほど、風景とか生活の描写がありません。たま あにどうでもいい感じの写真が入るのですが、それらは「この写真で 風景を想像しろ」とでもいうことなのでしょうか。 しかしながら、私小説なわけですから、それはいいでしょう。私がこ の著作を読んで「センスを感じない」と思った箇所は、姉妹のおしゃ べりが「英語から日本語」「日本語から英語」とスイッチしていく部 分です。私は日本育ちなので、この姉妹のような言葉を切り替えて話 す、ということはありませんが、常識的に考えて、「英語で話すとき には日本語で伝えられない何か」を語るときで、日本語で話すときに は「英語で話すと伝わらない何か」を語るときではないのでしょうか。 そういう部分が、この小説では全く伝わってこないです。なぜ英語と 日本語を切り替えるのか、そのスイッチのメカニズムというか、理由 が読者に伝わってこない。どうでもいい会話の部分が、ランダムに、 時に、英語になり、時に日本語になる(笑)。そうじゃないでしょう。 著者はこういう環境にない人か、あるいは想像力に欠如しているのか。 いずれにしても、Left to Right というタイトルにしては致命的だと 感じました。 話が暗いうえに、世の中にはもっと優れた私小説がいくらでもあるで しょうから、特にお買い求めになって読む必要はないでしょう。同じ ような生育環境にある人は、読めば「ああ、私だけじゃないんだ」と 感じるところがあるかもしれませんので、星は2つにしておきますが、 それ以外でしたら、特に買って読むことはないと思います。
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「アメリカに住む」という孤独
主人公は筆者そのもの、美苗である。 父は会社を辞めて、アメリカ永住を決意するが20年経った今、ボケが進んで施設に入っている。母は年下の男と出奔してシンガポールに住んでいる。 美苗は13歳の時にアメリカに来ているから今は30代前半か。ただ一人の姉、奈苗は離れて住んでいるが、孤独を紛らわすために長い電話をかけてくる。最初はこの長電話の会話で話が進行する。このあたりまでは、私はなんてつまらない本だと思っていた。 ところが、美苗の学校生活を通じてアメリカにおける日本人の地位と言う物が、次第に明らかになったいく。 白人の目から見れば、日本人なんて韓国人とも中国人ともとれる只の「東洋人」に過ぎない。白人と対等につきあっているつもりでも、黒人、ヒスパニックなどと同じに東洋人という枠に入れられた異人種にすぎない。 日常生活において、次々とその事実が明らかになっていく。 姉の奈苗が白人仲間とブラインドデートに誘われて,嬉々としていってみたら、醜い韓国人男性をあてがわれた悔しさ。デートから帰ってきてワンワン泣いた奈苗の悔しさは手に取るように分かる。 アメリカの日本人は日本人社会に住んでいるから日本人なのだ。白人社会に入り込もうとすると、目に見えない壁によって、被差別を認識させられる。 しかし、この孤独感は異国人だけのものではない。アメリカに住む白人でさえ、社会の不条理に対する孤独感にさいなまれている。本書はアメリカと言う社会に住む場合の孤独感をじわじわと見せ付けてくれる。
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単なる愚痴
昔、移民によって故郷を離れた人々による文学、いわゆるディアスポラ文学が流行したとき、日本でもそういう文章があるということで一時期話題になった小説。 しかし、内容はお粗末だと思う。単なるいいところ出身の女性が、自分の境遇を卑下しているように見せかけて、実際は「自慢したいがために」書いている文章にすぎない。 この小説の時代背景を見てつくづくそう思う。70年代だからマルコムXもキング牧師も倒れた後で、人種差別は未だにあるにせよ、学問で業績を積めば上に行けることは決して不可能ではなかった。登場するお姉さんがピアノに転向した時期は五嶋みどりや小澤征爾が海外で大活躍し始めたころで、これまた才能があれば日本人でもピアニストとしてやっていける可能性が出てきた時期である。 しかし、この人たちは結局、檜舞台に建てなかった。それどころか立つための努力すらしなかった。五嶋みどりが自分の才能だけを頼りに母親に連れられてニューヨークへ渡った心情を思うと、ここに出てくる登場人物はどれもこれも甘すぎると思う。 だから、私はこの本を評価しない。それどころか自分たちの出身をこそっと自慢するスノビズムには到底我慢できないのである。
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驚愕のバイリンガル小説
「本邦初のバイリンガル小説」と銘打たれるとおり、本作品は日本語と英語が入り混じった文章で綴られるが、日本語が大部分を占め、英語は僅かばかりである。そのせいか、初めて本作品をパラパラ捲った際、横書きにびっしりと印刷された日本語に、何か眩暈のようなものを喰らわされる。 これまでに読んだことのない小説を手に取ったという感覚を憶えるのだが、いざ読み始めると、今度は恐ろしく単調な構成に驚かされる。「私」である美苗と「私」の姉である奈苗の電話のやりとりを軸に、「私」が意思決定して奈苗に告白するまでの一日が、「私」の回想を加えて濃密に描かれるといった、ただそれだけの一本道なのだ。そこには劇的な展開はなく、作者の他作品『本格小説』と比べると物足りない印象を受けざるを得ない。そもそも「私小説」と「本格小説」という表題そのものには、それぞれの作品を連関させる作者の意図を感じないわけにいかないが、本作品では構成をシンプルにすることにより、「私」の告白そのものに焦点を当てた格好だ。 本作品では、アメリカでの長期生活を通じて高められた日本語への憧れと、どこまでいってもアメリカで日本人であることを切り離して生活できないもどかしさを語る「私」の鋭い感受性や考察、そして、姉妹の奥床しいコミュニケーションなどが描かれている。また、「私」の過ごした20世紀後半の、多様な人種が集うニューヨークの情勢やそこから浮かび上がるアメリカ社会も知ることができる。ドラマチックではないが、かえって「私」の繊細な心の動き、あるいはアメリカと日本の差異が楽しめられ、十分に読みごたえがある。
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