作品情報
受賞歴と書誌記録からたどる『四十日と四十夜のメルヘン』。
新潮社から刊行された小説で、語りと物語生成そのものを主題化する実験性を持つ作品です。 Amazon JP、NDL Search、出版社・書籍情報を作品名と著者名で確認しました。 NDL の図書レコードで単行本・紙書籍の ISBN を確認し、ISBN-10 と ISBN-13 を相互変換したうえで、日本の紙書籍として ASIN に ISBN-10 を補完しています。
レビュー要約
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読者の反応は、題材の個性、文章の手触り、読後に残る印象に向けられている。詳しい評価傾向は出典先の書誌・販売情報で確認できる。
書籍情報
- 出版社
- 新潮社
- 発売日
- 2005-02-26
- ページ数
- 216ページ
- 言語
- 日本語
- ISBN-13
- 9784104741014
- ISBN-10
- 4104741019
- 価格
- 2530 JPY
- カテゴリ
- 本/文学・評論/文芸作品/日本文学
第27回(2005年) 野間文芸新人賞受賞
レビュー
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ジョルジュ・ペレックが現れた!
保坂和志さんはこの小説を読んで「ピンチョンが現れた!」と言いました。 ですが、私はトマス・ピンチョンではなく、フランスの実験工房ウリポのジョルジュ・ペレック「人生 使用法」に近いものを感じました。読んでいる時の感覚としては、同じく実験工房ウリポの作家レイモン・クノーの「文体練習」を読んでいる時のようでした。 なによりも、とにかく面白い!久しぶりに読書に没頭しました。いや、「読書」というよりも「体験」をしたのかもしれません。 次回作に期待です。 ちなみに、この作品は今期の野間文芸新人賞を受賞しました。この本に収録されている「クレーターのほとりで」は三島由紀夫賞候補作品で、惜しくも受賞はできませんでしたが、選考委員の筒井康隆さんが絶賛していました。
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素晴らしい
横田創の(世界記録)と並んで、2000年代トップクラスの前衛文学。確かに言葉で勝負し、成功した小説。クレーターのほとりで、はやや劣る印象。
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読み手の能力不足?
野間文芸新人賞受賞作であり、 町田康氏の「ただの雑音がなぜか壮大なシンフォニーに成り変っていく さまを聴くような、感動的かつ快楽的な読書体験だった。」 という推薦文を頼りになんとか読了しましたが、 読み手の能力不足か収められている2編 「四十日と四十夜のメルヘン」 「クレーターのほとりで」 共に一瞬たりとも面白いとは思えませんでした。 「四十日と四十夜のメルヘン」 時系列が混沌としている上に、主人公がいつのまにか入れ替わる・・・ こんな奇想天外なプロットが成立していること自体が不思議です。 「クレーターのほとりで」 こちらはまだ読みやすいのですが、結局何が言いたいのか、 何のための実験だったのかわからずじまい。 自分の読書力を試してみるにはいいかもしれません。
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イメージの拡散
物語は、主人公の身辺雑記としてゆるゆると開始し、淡々とした描写が続いてゆく。ところが、主人公の、私淑する作家の作品分析へのこだわりの描写あたりから、ストーリーの焦点が一体どこにあるのかが曖昧になってゆく。さらに主人公がチラシの裏に書き記す日記が、ミニマルかつ無限に拡大してゆき読者を幻惑する。後半では、主人公の手になる作中作が一人歩きし始め、もともと希薄な主人公の存在感が、ますますぼやけてゆく。気がつくと主人公の平坦な日常は、いつの間にか時空を超えた迷宮へと変貌していて、読者は途方に暮れることになる。奇妙な読後感を味わえる作品。
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究極の「空気系」?
端的に言うと、面白くなかった。ただただ、主人公である「わたし」の面白くもない身辺雑記を読まされている感じ。主人公が書いた小説が提示されるというメタ的な仕掛けがあるものの、そこに何か見るべきところがあるわけでもなく、ただ「わたしが生活しています」というだけの話。で、オチも無い。久々に、どう面白がっていいのかわからない小説を読んだ。確かに、何かを物語ろうという意志を一切感じないという意味において、これは客観的には純文学と見なすことができるのだろうか。しかし自分には、純文学的感興を引き起こさなかった。純文学的な面白み(味わい)さえ排除された作品、と言うべきか。ある意味、純文学のなかでもとりわけて純粋かも? 何のペシミズムもなく、何のオプティミズムもない。啓蒙的でもなく、示唆的でもない。まともなストーリーさえ無い。無い無いづくしでさて何が残るのかというと、ただただ作品があるだけ。これは案外すごいことかもしれない。皮肉ではなく。 読みたくはないが、応援はしたいかも。
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呪術的世界 これは、小説なのか、それとも、……
表題作「四十日と四十夜のメルヘン」について書こう。本作を評するには、青木氏自身の言葉に頼ろうと思う。曰く、 似た音が寄せ集められ繰返されてみればこれも歌である。(「クレーターのほとりで」より) また曰く、 いまここにいないあの人にもう一度逢いたい、故人の姿を見たり声を聞いたりもしてみたい、そんなかなわぬ願いが人に演じさせることを欲求させ(略)(「クレーターのほとりで」より) 芥川龍之介は、現実には存在しない「れげんだ・おうれあ」を下敷きとして「奉教人の死」を創作した、とかたった。 辻原登氏は、現実には存在しない「夫婦幽霊」を下敷きとして『円朝芝居噺 夫婦幽霊』を創作した。 「はいじま みのる」氏は、現実には存在しない「ユルバン記」を下敷きとして『裸足の僧侶たち』を創作した、と「わたし」は見ている。 「はいじま みのる」氏は、七年間の記録を七日間に短縮した、とかたっている。 「わたし」は、現実には存在しない『コミュニカシオン』等を下敷きとして、メルヘン『チラシ』を創作した、と私は見ている。 「わたし」は、四日間の記録を十回、繰り返した、とかたっている。 「なにかしら、あれ、あそこ?」「あそこにあるのは、士官学校だよ」「そこ、左、あれは?」(略)(「わたし」の手になる「日記」中テキスト『コミュニカシオン』より) 「ねえクロエ、あれをごらんよ」「なに、どこ?」「あれ、下のほうの、左」「左? どこ?」(「わたし」の手になる「日記」中メルヘン『チラシ』より) 本作はあるいは、「いまここにいないあの人にもう一度逢いたい、故人の姿を見たり声を聞いたりもしてみたい、そんなかなわぬ願い」につき動かされた作者の手になる、「似た音が寄せ集められ繰返され」ることによって生まれた「歌」なのかもしれない。
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メルキュールの夜は目くるめく迷宮?
すみません。体調がイマイチだったせいか、なかなか本の中に入り込めずに読み終わってしまいました。 読み進めながら、引っ掛かりを待ったんですが、筒井康隆や安部公房のいくつかの作品がちらつくばかりで、そのまま消沈。もう一編の「クレーターのほとりで」ではスタニスワフ・レムの幻影が・・・・・・要するに、これらの作品の人となりというか文体についぞ出会うことがなかったんです。 これは読者としては手落ちですね。
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すごいものを読んでしまった
例えば、ある人物の日記風に書き出されていながら、気づいて見ると観察されている当人の心情に移っていて、さらに執筆中の小説のなかの人物の心情に移っている。見る人と見られる人、現実と虚構の階層をあっという間に越えてしまうとんでもない小説。とはいえ、それぞれの階層内の描写は徹底的にリアリズムであり、まったくでたらめなことが書かれているわけではない。ただ、その結合の仕方が無気味なほど自由なだけ。映画でいえばとてつもないカットの連続といったところです。すごいものを読んでしまった。 もちろんその「結合の仕方」は因果関係ではないので、物語を読みたい人(=つまり因果関係を確認したい人)はまったく読めないことになりますが、それは別に悪いわけではない。ただ、物語を読む人用には上質の物語が世の中にいくらでも存在しており、この小説はそうではないというだけです。映画も同じ。ストーリーで人を動かす映画がたくさんあり、一方にはそうではない映画がある。 そのようにまったく別の物なのですが、その間を取り結ぼうと保坂和志さんが解説で奮闘しています。分からない人は放っておくという高踏的な態度をとる小説家・批評家・思想家が多い中で、この啓蒙的な態度には頭が下がります(「小説の自由」しかり)。とてもおもしろい解説。それがまた「保坂和志のいうようなことは理解できない」とか「分かる人にしか分からないものは小説ではない」などという見当違いな批判も招いているようですけども。「こういう風に読めばよい」と道筋を示してくれる解説から素直に読んでその意味を考えるか(明らかにこちらのほうが現代的な態度ですが)、それが気に入らない方は啓蒙を否認してわが道を貫くか、物語に耽溺するか、という別の道がいくつもありますので、そんなにこの小説に目くじらを立てる必要はありません。ご安心を。
関連する文学賞
- 野間文芸新人賞 第27回(2005年) ・受賞
- 三島由紀夫賞 第18回(2005年) ・候補