日本の文学賞

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闇の奥

芸術選奨文部科学大臣賞

闇の奥

辻原登

『闇の奥』は、辻原登による小説。コンラッドの題名を想起させながら、植民地的記憶と現代の不穏を重ねる小説。闇へ向かう旅の構図を通じて、人間の内奥を照らす。

文学的記憶植民地性

作品情報

闇の奥は、文学的記憶を軸に作品世界を立ち上げる。

コンラッドの題名を想起させながら、植民地的記憶と現代の不穏を重ねる小説。闇へ向かう旅の構図を通じて、人間の内奥を照らす。

書籍情報

出版社
文藝春秋
発売日
2010-04-13
ページ数
283ページ
言語
日本語
ISBN-13
9784163288802
ISBN-10
4163288805
価格
405 JPY
カテゴリ
本/文学・評論

失踪した民族学者の足跡を追う大冒険ロマン 第2次大戦末期、ボルネオ島の奥地で失踪した民族学者はなにを見つけたのか? 彼の足跡を辿って伝説の小人族を追う冒険が始まる

レビュー

  • レオポルド二世はモラーク・チルドレンだったか?

    レオポルド二世については日本人はほとんど知りません。多分、彼こそがモラーク・チルドレンの典型的な人物。モラークとして育てられたのかどうかは分かりませんが、古代中東で発生した植民地支配と一神教(三教)、それにバビロン人が有していた選民思想をイスラエル人(ユダヤ人)がバビロン捕囚から持ち帰った。植民地支配と一神教は古代中東の種族、民族、の轂撃(こくげき こすれ合い)の中から生まれたもので、異族からどうやって搾取、支配するか?のノウハウをイスラエル人がギリシャ、ローマに伝えたもの。欧州人は、このようなノウハウは欧州文化から出る事はなない文化であった。イスラエル人がこのことと、欧州文化を各地方に伝えた訳である。「欧米人はユダヤ精神」と言われていることがこの植民地支配、一神教、選民思想、それにパウロがねつ造し、キリスト教徒を二千年間だましている「贖罪(しょくざい)」であり「原罪」である。これがユダヤ精神である。日本人が異族に占領され、困難な歴史がなかったことが、明治維新以来、異族に支配されていようとは夢にも考えられないことである。これが現在の日本人の不幸(といっても全世界の不幸であるが)である。なお、一神教から共産主義が分家として生まれましたが一神教、共産主義で現代人を植民地支配するわけです。共産主義は一神教と同じで狂信者(少し頭のある連中をしばる=宗教=宗教とは再びしばるの意)が居るわけです。一神教は細民(普通の民)をしばるものです。人間として生まれれば、一神教の感覚は持ち得ない話であります。

  • 要するに、ロマン

    小人、と一口に言っても、サイズに幅があるのに違いない。日本の昔話には、「一寸法師」なんてのがあって、私の頭の中では、彼は手のひらの上に載るサイズだ。わが国の神話には、スクナビコナという神様がいるけれども、これも私の勝手なイメージだが、手のひらに載りそうだ。 本作『闇の奥』に登場する小人のサイズは……ここでは明かさないことにしよう。 ところで本作に登場する小人は、ミカミ博士によれば、…… 急所を針でひと刺ししたり、だれにもみられず食べものに毒物を入れたりすることが出来る。 という。こういう油断も隙もない、あなどれない性質は笙野頼子氏が『金比羅』の中で描いたスクナビコナ像と(偶然に違いないのだが)二重写しに見える。なあんて、本作とは無関係な話に移行してしまった。 脱線ついでに書いておこうと思うのだが、小人族に魅せられた三上を追跡する捜査団の一人に、村上姓の男性が名を連ねている。本作の初出の年月日が二〇〇五年二月だから、辻原登氏が村上春樹氏『1Q84』を読めるはずがない。単なる偶然に違いないのだが、しかし、いや、あるいは、……こういうことだろうか? 思い出はたえず補強される必要がある。ときに神が、あるいは偶然が介入してそれを行なう。 本書には岡潔氏の説、 われわれ日本民族は三十万年ほど前に他の星からやってきて、マライ諸島のあたりに落下した。 云々というのが書き込まれているが、そういえば私が比較的最近読んだ井上ひさし氏「見るな」にもこれに近いことが書かれてはいなかったか? あるいは、記憶違いかもしれないが……。あるいは、こういうことだろうか? 何かに集中すれば、それに関するものが向こうからやってくるという経験をしばしばする。 もし人がそれをロマンと呼ぶのだとすれば、本書は帯のタイトル通り、「一大冒険ロマン」と呼べるだろう。なんだか、それは、聖句における、求めよ、さらば与えられん、探せ、きっと見つかる、に通ずるところがある気がする。出会うべき人たちが出会うべくして出会う、というような……。 その他、〈沈黙交易〉という文化や、〈だって、夏でしたもの!〉というフレーズなどには面白みを感じたのだが、違和を覚えた箇所もあった。 あるところで、人称が「息子」となったり、「私」となったりして、いったいこの文章を書いているのは誰なのだろうか? 不思議な文章だな、と思ったのだ。 私は、自分が村上の息子なのか、三上の息子なのか、一瞬分からなくなった。 ともある。一瞬、とはいえそんなことがあるものなのだろうか? これはあるいはリトル・ピープル、いや、違った……小人たちの仕業だったろうか? 人称をゆがませ、もって現実にゆがみを生じさせ、ファンタジーの扉を開く……。 どうやら私のレヴューは相変わらず、あてにならないようである。

  • 難しい

    難しい漢字が所々にあって、フリガナもない為、雰囲気で読んでる感じです。 内容的にもすごく面白そうだけど。

  • 題名に引かれて購入したが

    どう料理してあるかなあ、と。だって、原本はあの映画の下敷きになったやつだもの。 ・・・あのどろどろさはない。いろんな比喩が楽しい。 本物のコンラッドの『闇の奥』はCG以前の最後の実写映画といわれるコッポラのかの『地獄の黙示録』の下敷きになった作品。 何回も見ても…圧倒される作品。ずっと後から出たカットしてない長いのがいい。 あれはお薦め、チャーリー・シーンの若き日のおやじが完全にヤクでラリって役をやった。 村上春樹の『海辺のカフカ』が出たとたん、つい手にとってしまった私は・・・その時懲りたにもかかわらず、今度も題名に惹かれたのだった。 『闇の奥』 …どう料理してあるのかな、と。 ピンポーン!・・・いかった(=良かったの意) …楽しめた。一部、『失われた地平線』(なんて古いんだろ!)にも通じるかなあ。背景が。まんが『龍(ロン)』の一場面にも。 重層的で読みごたえがあった。友人はよくそんなややこしいの、読むね、といったが。 風味が損なわれると思うから、ここで説明はしない。(どうせ、他の人が書いてるだろう) あれやこれやと楽しめる人とわけがわからん人がいると思う。 でも、感じたこと。 私たちは創造的に生きなくては、と。 自分自身の物語を始めて、始めたら創っていかなくては、と。 或る日、頭の中にぽっと何かが生まれる。それは果実の芯の役割で。 私たちのリアル人生は、その芯を取り巻きふくらんでゆく果肉のようなものだと。 虚と実、夢と現実・・・それらは入り混じって、やがては…叶う・・・の・・かな? かつて、思いの強い方が結局は勝(=モノにするのだ)、と言った人もいたっけ。 …いったい、自分の夢ってなんだっけ?と考えさせてくれる読後感は悪くない。

  • 愉楽

    あるとき、怖れにとらえられた。これが未来の観念となる。 それより一瞬遅れて、なつかしさにとらえられた。これが過去の観念になった。 この二つの観念に引き裂かれた瞬間、それが現在となった。 ポルトガルのピアニスト、マリア・ジョアン・ピリスはポルトガル語に他の言語に訳せない「サウダーデ」という言葉がある。という。 時間の観念の発生以前のえもいわれぬ虚の感情。誰か大切な人が、物がない。不在が、淋しさと、憧れ、悲しみをかきたてる。と同時に、それが喜びとなる。 数学者の岡潔のいうなつかしさと発見の鋭い喜びの情緒。万葉集、新古今和歌集あたりまでの体感を伴った強い感情とでもいうべきもの。 時間感覚を伴ってやってくるノスタルジアとは質的に異なる。 この本の主人公、三上隆もこのなつかしさにかきたてられ矮人伝説を追ってボルネオ、雲南、東チベットへと旅をつづける。(2004年、インドネシアのフロレス島で約18、000年前の地層から身長約1mの小人族が見つかった) この小説の通奏低音は現実と空想、この世とあの世がまるで重ね合わせのようになっていて空想が現実をつくる。(何かに集中すれば、それに関するものが向こうからやってくる)そして、その時、胸の中は喜びで沸騰し猛烈ななつかしさを体験する。 この本は三上隆を探し求める者たちの物語である。 著者は類希なストーリーテラーでもあるので、一気に読ませ考えさせる。 記憶と感情と時間に興味をお持ちの方に勧める。

  • 香しいアジアの物語

    こんな香しいロマンを紡げる作家は、今の日本に辻原氏以外にいるでしょうか! この香しさは、水仙の高貴な香りと、アジアの密林の生臭いラフレシアの腐臭とを併せ持っています。 大戦末期にボルネオの密林で消息を絶った、蝶採集家でもある民俗学者。彼はネグリト(アジアの小人)を追い求めていたという。彼の生存を信じるものたちによる幾度もの探索。 あらすじを書こうとしたら、なんか本の帯の文句みたいになっちゃった。 闇の奥、というタイトルに、かの名作を連想する人もいらしゃるでしょう。密林に消えた人物を追い求める、首をちょん切られた人の頭蓋骨が軒下に並んでいる、幾つかの類似点はありますが、似て非なる物語です。だってこっちは同じアジアの地、アジアの民のお話なんですもの。キーワードは、サウダーデなんですもの。(知らない人は調べてね) 4年の歳月をかけて少しずつ書いていった物語なので、話頭はあれこれに及び、ひとつの作品としてのまとまりのなさを感じなくもないのですが、それが作品の疵瑕になっているのかというと、何故か気にならない。大きな物語だからでしょう。 最後は、インディージョーンズみたいな冒険活劇でピッチを上げていくのは、なんとか物語を終わりにしなくちゃいけなかったからかしらん。もしかしたら作者は、もっと書き続けていたかったのかも。 虚が実を生み、実の峰の向こうにまた虚がたちこめて、その果てにまた実が顔を出す。 通奏低音は不思議な言葉、サウダーデ。ただこの言葉がずっと鳴り響いるかというとそうでもなくて、 最後はどっかいっちゃったかなと思っていたら、ラストで「その人」が遠方に見える場面で、 読者自らが「サウダーデ」を体感します。私、本当にうれしさと懐かしさを感じましたもん!

  • 話の展開についていけない

    導入部の矮人探査の話にひかれて読み進めていったが、 途中からどんどん違う話に展開していく。 その話題の逸脱的展開を「面白い」と思う人もおられるようだが、 自分としては「何のこっちゃ…」としか思えなかった。 正直言って、つまらなくて、最後の方は飛ばし読みになってしまった。

  • 文章や内容は通俗だし、チベットに舞台が移って以降、小説の体をなしていない。

    解説の鴻巣友季子は、本書の構成がいかに複雑なものかを褒め称えるのみだが、 はっきり言って、文章や内容は通俗小説のレベルを出るものではなく、それを上記の 前衛めかした筆法でかろうじて糊塗したような作品に過ぎないと思う。 戦時中に消息を絶った人類学者・三上隆を追って、調査団がボルネオを訪れる前半は まだしもきちんと書かれているのだが、舞台が熊野を経てチベットに移る後半になると、 筋運びもひどく駆け足で荒唐無稽なものとなり、ほとんど小説としての体をなしていない。 小人族について探った人間は、彼らの手で殺されるかのような伏線も生きていないし、 結局、三上隆が誰にでも行けるダラムサラにいたという結末を読まされて、それまでの 探索行はいったい何だったのかと、思わず脱力せずにはいられなかった。 作者は、さまざまな資料や文学作品からの引用を大量に投入することで(中には和歌山 毒物カレー事件の記事まで含まれている)、虚構と現実のあわいを極力曖昧なものに しようと工夫しているようだが、それらがあまりに見え透いていて鼻白んでしまうことも 少なくなかった。どうせ大風呂敷を広げるなら、もっとうまくやってほしかったというのが 正直なところで、この程度の作品を「芸術選奨」などに選ぶのはどうかとも思うのだが・・

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