作品情報
双子は驢馬に跨がっては、不条理を軸に読者を作品世界へ導く。
森のペンションに監禁された父子が、双子の救出を信じて物語を紡ぐ奇想長編。不条理な状況と冒険譚が重なり、現実と想像の境界が揺らぐ。 書誌確認では、単行本・文庫として確認できる場合のみ紙書籍の識別子を採用し、雑誌号や掲載媒体の番号は使用していない。
レビュー要約
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題材の切り取り方と構成を評価する声があり、背景知識を持つ読者ほど細部の厚みを楽しめる。一方で、密度の高さを重く感じる読者もいる。
書籍情報
- 出版社
- 河出書房新社
- 発売日
- 2017-09-22
- ページ数
- 192ページ
- 言語
- 日本語
- サイズ
- 13.7 x 1.8 x 18.7 cm
- ISBN-13
- 9784309026053
- ISBN-10
- 4309026052
- 価格
- 1760 JPY
- カテゴリ
- 本/文学・評論/文芸作品
「アメトーーク!」読書芸人特集・光浦靖子氏紹介でブレイク! 独自の世界観で大注目の気鋭が描く、双子と驢馬の荒唐無稽な冒険譚。
一九九〇年、神奈川県生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科仏文学専攻修了。二〇一四年『アルタッドに捧ぐ』で第五一回文藝賞を受賞しデビュー。他の著書に『鳥打ちも夜更けには』がある。
レビュー
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自由に感じたり考えたりできる面白い作品です。
「アルタッドに捧ぐ」と「鳥打ちも夜更けには」が面白かったので、迷わず読みました。 やっぱりすごく変わっていて面白かったです。人名が日本人で地の文も日本文学なのに、人物の語り口調や行動が外国の昔話のようなとこも、「鳥打ち〜」と似て不思議な世界で、想像力をかき立てられます。 監禁父子は引きこもって、地図を描きながら想像の中で旅をする。双子は旅に出て、働いて人に認められ、お金も貯めて目的もある。動物や自然と触れ合い、リア充だなぁ、いいなぁと思いつつ、自分は父子側の人間だなと思ってしまいました。(笑) 雇われ人達は、思考停止して現状維持しようとし、対決する双子もおかしな人相手でも今までのやり方を変えられない。ある意味こちらも思考停止か。結局誰もが停滞している。 でも、現実もこんな感じに回ってるんじゃないかと思えました。これは外国の童話のように現実を皮肉ってるのではないかなと感じました。 帯にありましたが、 「文学には、もっともらしい教訓やわかりやすい答えなどは必要ない。読者も、作者さえも、自分自身の読む力で作品の世界を楽しみ、自由に感じたり考えたりすることそのものが文学なのだ」 何を表してるのか思いを巡らしながら読めて、想像する楽しみがありました。 誰が読んでも分かりやすくて良い感じに終わるお話ではないので、売れなさそう…。(悲) 応援したいと思いました。 光浦さんがTVで「鳥打ち〜」を紹介していてこの作家を知りました。光浦さんありがとう。
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『寓話であるから』と許していいのか?
第一作から現在まで一貫して「書くこと」と「書かれること」、言い換えると「想像すること」と「創造すること」の相関性を命題としているであろう作家「金子薫」による第三作目。 鶏が先か卵が先か、事実が先行しているのか、想像が創造を呼んでいるのか、物語は監禁された「君子危うきに近寄らず」と「君子」の父子と、双子の姉と弟、そして驢馬との旅の交感により進んでいく。交わりそうで交わらず、いや、手紙を介した交差こそあるが、しかし彼らは最終的に顔を合わすことなく物語は終わり、そして始まる。 そうした展開は荒唐無稽で幾分まだるっこしいながらも、しかし確かな筆力でもって描かれる挿話の一つ一つ、描写の一つ一つには不思議な魅力が溢れている。この不条理さとそれを押し進めたことで生じる奇妙な笑い(ユーモア)には、あるいはカフカを思わす部分があるかもしれない。 また静と動のモチーフとなる「父子」と「双子」も、当初は明確な目的の元に行動していた。それぞれ「脱出」であり、「救出」である。だが彼ら・彼女らはその目的のための「逃避としての囲碁」と「救出に至るまでの旅」にそれぞれ幸せを見出してしまう。そしてこの不条理さに満ちた世界はある種の人々の思いを叶えてくれる世界なのだろうか? 彼らはそれぞれ目的も記憶も忘れ、その行動を続けざる負えない状況をプレゼントされる。考えてみれば駱駝と共に脱落した(ように見える)浮浪者の二人もその直前に受け売りでこそあるが、旅の魅力について口舌を振るっていたではないか。四人の従業人も最初から終いまで一貫して、ただただペンションで働き続けることを願っている。つまりはこの世界は「そういう世界」なのであろう。なんだったら一度も登場しなかったオーナーもあるいは本人の「願い」でもってそうなのかもしれない。 このファジィさや人名のセンス、シンメトリカルな構図や作中の雰囲気等に酔え、そして未解決の部分、意味深長な仄めかしの数々に目を瞑ることが出来る人であれば、あるいは充分に楽しめ、本を閉じることが出来るかもしれない。だがしかし、私の個人的な感覚から言えばそれらのいくつかは「寓話であるから」だとか「シュールだから」だとかいった理由で看過できる要素ではない。 つまり明言こそされていないものの、作中の世界が「そう」であるからといって、登場人物のことごとくが――主人公さえも、脇役さえも――その世界のルールに人知れず屈服し、それこそ盲いた囚人のように行動をする様を描いたって、どうしようもない。当人方がラクか苦しいかはいっそどうでもよい。ただ登場人物が現状維持を選び続ける様に、どのようにカタルシスを得ようというのか。仮にこの世界に屈服するのであれば、それは反抗の後でなければ意味はないはずだろう。 総評するに、おそらくこの作品は行間を読むタイプではない。これら人物の全てをなんらかの隠喩であるとして受け取らないことには、カタルシスは得られないことだろう。だが、その隠喩先を示唆するものが(おそらく)作中にはない。各々が各々の尺度でもってその「変換先」とでも言うべき「当て嵌めるもの」を探す必要があるのだろう。だから私は物語としての好みで判断させてもらう。筆力や技法は十二分だと思う。 だが、私はこの「物語」が好きではない。
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期待はずれ
習作の域をでない作品。「全国中学生作文コンクール」金賞受賞なら、納得もできる。
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