広島第二県女二年西組: 原爆で死んだ級友たち
『広島第二県女二年西組』は、関千枝子による記録文学。原爆で全滅した級友たちの足跡を追い、一人ひとりの生と死を再現する。
作品情報
失われた級友たちの名と姿を、四十年後にたどり直す鎮魂の記録。
筑摩書房刊。勤労動員を休んだことで生き残った著者が、亡くなった同級生の足跡と最後を調べ続けた記録である。
レビュー要約
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個人の記憶を丹念に集め、集団として失われた生を具体的に浮かび上がらせる点が評価される。読むには重いが、証言の力が強い作品である。
書籍情報
- 出版社
- 筑摩書房
- 発売日
- 1985-03-01
- ページ数
- 227ページ
- 言語
- 日本語
- ISBN-13
- 9784480852595
- ISBN-10
- 448085259X
- 価格
- 379 JPY
- カテゴリ
- 本/文学・評論
Amazon.co.jp: 広島第二県女二年西組: 原爆で死んだ級友たち : 関 千枝子: 本
レビュー
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原爆ノンフィクションの金字塔
これを読むか読まないかでは戦争への見方が180度変わるはず。原爆で焼け死んだ一人一人の生き様に、同級生の著者が執念で迫ったルポルタージュ。
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是非一度は読むべき本。
実際に経験又見聞きした内容の文章は、人に訴える力があるし、この体験談は一つの体験談ではなく当時その場にいた人たちの実際の声や表現などで、今更ながら核の脅威がじかに伝わってくる1冊です。このように各級友一人ひとりの追跡または聞き取りをされた努力には感服以外の何物でもありません。ありがとうございました。
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関千枝子さんの本
関千枝子さんの本、とても良い本です。文庫本になっていても書店ですぐに見つかりません。夜遅い注文であるにもかかわらず、翌日まだ明るい夕刻までに自宅に届けていただけて良かったです。
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原爆で亡くなった人達にも、それぞれ人生があったことを再認識させてくれる名著です
原爆投下時に広島市内には建物疎開の勤労奉仕に駆り出されいた中学生が多数被爆し亡くなったことは有名ですが、そのなかのひとつ、広島第二県女の2年生の被ばくとその後を、生き残った同級生が丹念に調べた記録です。 同種の本に、全滅した広島第二中学の1年生の被爆から全員の死亡までを遺族の証言でたどる『いしぶみ』もありますが、それと並び、原爆の恐ろしさと伝えてくれる一冊です。 特筆すべきは、亡くなった同級生の学校生活での素顔が生き生きと描かれており、その喪失が胸にジンと響く点です。「1発の原爆で数十万人が死んだ」とされますが、その数十万人の一つひとつが、積み重ねてきた、あるいは輝かしい未来があった人生であったことを再認識させられます。 核兵器と総力戦の恐ろしさを実感させてくれる、貴重な一冊と思います。 ほかの方のレビューを拝見すると、靖国に対する著者の考えに拒否感を覚える方も多いようですが、仮にそれに賛同できずとも、被ばくした同級生を負った貴重な記録の価値は毀損されるものではないと感じます。
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戦争の悲惨さ
二度、戦争を起こしては、いけないし、悲しむ人を出しては、いけない。
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胸に迫る現実
朝日新聞の天性人語の中で引用されていたのを読んでから気になり探していました。大きい書店にもなかったのでアマゾンで購入できて良かった。勤労奉仕中に被爆し犠牲になった学童について書かれた書籍は他にもありますが、本書も女生徒一人一人の当時直面した状況が丹念に書かれており胸に迫ります。
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永遠に記憶し続けなければならない悲劇
爆心地近くで作業に従事していたためにクラスメイトの大半が悲惨な死に方をした女学生(現在でいえば中学1~2年生)の記録。 文字通り「何の罪もない」子供たちが、これ以上もないほど悲惨な目に遭い、自分たちの遭遇した状況がどういったものかもよく分からないまま、人によっては家族にも会えないまま死んでしまう。原爆投下が「戦争終結を早めるため」「米軍の犠牲を最小にするため」といった言い訳が全くの虚偽であり、原爆が完成してから「最も効果を測定しやすい地を選び、効果を正しく測定するために原爆投下まで敢えて通常の爆撃を控えていた」ことも今は各種資料から明らかとなっている。これが「人道に対する罪」でなければ何なのだ!?と絶叫したい思いである。 現代に生きる人たち、将来に生きる人たちは、本書のような記録を読み続け、戦時下における一人ひとりの人生(もちろんそこには喜びもあった)を「我がごと」として思いを馳せる必要があるのではないかと思う。 さて、本書は、自らも当事者であった作者が自身の記憶や遺族たちへの丹念な取材によって、死んでいった一人ひとりのクラスメイトを「人間」として描こうとしたものである。作者の努力なかりせば、多くのことは文字にされないまま消えていったかもしれず、こうして現代に生きる人たちの目に触れることもなかったものと思われる。そういった意味では、作者の活動はたいへん尊いものである。 しかしながら、本書を読むといくつか「違和感」を感じる箇所があることも否めない。作者の母親は勤労奉仕などバカらしいことと考えており作者もその考えに同調していた旨の記述、クラスメイトの中で●●さんはしつけがよく母親も気に入っていた云々の記述、クラスメイトの中には処世術に長けており親分肌の生徒におべっかを使う人ともいたという記述、、、。どうしてそのようなことを書くのか、そのようなことを敢えて書く必要があるのか、まったく疑問に感じた。一人ひとりの死を悼みながら、同時にその死を軽んじるようなことをどうして書いてしまうのか。ここに作者の品性の低さがにじみ出ており、せっかくの本書の価値を損なっているのが残念である。 作者は原爆投下当日、作業を休んでいたために生き残ることができたわけであり、作業を休んだことには合理的な理由があるのではあるが、もし「勤労奉仕などバカバカしい。少しでも休む理由が見出せるなら積極的に休もう」という意思が家族や作者に多少ともあったのであれば、クラスメイトの死を悼む資格をそもそも有しないであろう。話はややそれるが、戦争中に心の中では戦争反対を唱えた人がいるという。それは事実であろうし、そういう人がいることは社会が健全であることを示すこととも思う。しかし、たとえそう思っているからといって、「やるべき(とされている)」ことをボイコットする、サボタージュすることの理由にはならない。「戦争反対」の意思を持ち各種の活動への参加を自らの意志で積極的に忌避した人は、戦後において戦争中のことについて意見を述べることに参加する資格を有しないであろう。そういった意味で、作者は、この記録を記すのであれば自身の存在は最大限消しておくべきであったと思う。いわんや靖国神社合祀に関して云々するなど論外である。靖国神社に対する思いは亡くなった方々一人ひとり、ご遺族一人ひとりそれぞれの考え方があるだろう。これは全く「主観」の問題である。したがって、作者がどのような主張・イデオロギーを持つことも自由である。しかしながら、「あとがき」に作者のイデオロギーを盛り込んでしまうことで、「ひょっとしたら亡くなったクラスメイトたちを、作者の主張に利用するつもりだったのか」という、うがった見方すらできてしまう。これは、亡くなった一人ひとり、ご遺族一人ひとりに対して著しく礼を失する行為であると感じる。作者の現在のイデオロギーと、亡くなった方々一人ひとりの死に方、死に際しての気持ちとは全く何の関係もない。作者が靖国問題を主張したければ、別の場、別の書で主張すべきであった。 せっかくの良書が作者の品性によって貶められたことで、評価は★★★とした。その部分を無視して読めば、本書は読むべき、記憶すべき書である。
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いつでも戦争は反対。
原爆ドームと資料館に行ったことが、この本の購入のきっかけになりました。普段の生活の中では、忘れがちな、当たり前のような平和を今一度考えさせられました。