日本の文学賞

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グラフィティ

中原中也賞

グラフィティ

岡本啓

都市のざらつき、身体感覚、記憶の断片を鋭い言葉で刻む詩集。

現代詩都市記憶

作品情報

忘れられた声が街の表面に残る。

『グラフィティ』は岡本啓による作品。都市のざらつき、身体感覚、記憶の断片を鋭い言葉で刻む詩集。 思潮社単行本で刊行確認。英訳版は確認できないため Not available in English。

レビュー要約

  • 題材への踏み込みと構成の確かさが評価されている。専門性や分量を重く感じる読者もいるが、対象への愛情と読み応えが支持されている。

書籍情報

出版社
思潮社
発売日
2014-12-01
ページ数
96ページ
言語
日本語
ISBN-13
9784783734581
ISBN-10
4783734585
価格
2420 JPY
カテゴリ
本/文学・評論

Amazon.co.jp: グラフィティ : 岡本 啓: 本

レビュー

  • 作品の原型となる原体験が、そのまま、ほぼリアルタイムで作品になったような感覚

    表題作の「グラフィティ」は圧巻だ。映画を見ていて、いつのまにかその世界に没入している時のような、臨場感がある。 このような文章はどのようにして書かれているのだろう? 「イーストリバーにそった倉庫跡」がどこにあるのかは知らないが、治安の悪いエリアなのだろう。岡本さんがこの場所に実際に行って感じたことが書かれているのだろうが、その場でメモかパソコンかを広げて書き上げたのだろうか? 百行以上の長い詩なので、車の中かどこか、落ち着いて長時間いれる場所があったのかもしれない。それにしては、「レキシントンアベニュー」「屋上」など、複数の場所が出てくる。 その日、行った場所、行った場所でメモをとって、家かホテルに帰ってから、思い出しながら書いたのだろうか? いずれにしても、まだ興奮が新鮮なうちに書いたのだと思われる。 2~3日とか1週間とかたって書いたとは思えない。 ところどころで、岡本さんが、まったく新しい初めての感覚に出会ったり、世界の本質的なものを不意に悟ったりするような高揚した場面があって、読んでいるこっちまで嬉しくなってくる。 ブルー、そのあいまいな単語が外気にぶつかり 白くなると、ふいに 血と精液の混じりあう瞬間があって 彼女たちの死んだ親戚たちの顔もみえてきて すごくセクシー 血も息もうすめたりはできないから すごく生きてる p.37 とつぜん、はっきり聞こえた 言葉をふかく柩にしろ そう聞こえた p.39 でも意味のほどけた線をなぞると、そこに 一瞬だけ 澄みきった夜の砂漠がみえた p.40 創作をする人は、この種の高揚感を感じた時に、それを作品にしたいと思うのだろう。ある人は音楽に、ある人は絵に、ある人は物語の一場面に、ある人は映像に、ある人は建築空間に……、それぞれ自分が訓練した方法を使って形にするのだろう。 でも、詩以外の形では、こうまで生々しく形にすることはできないのではないだろうか? 作品の原型となる原体験が、そのまま、ほぼリアルタイムで作品になったような感覚は、詩以外にはないのではないか……、と思わされる。

  • 映画か景色を

    読んでみて映画のシーンかある風景が見えた。多分頭の中で考えたのであろうかと思われる。実際に自分の目で確かめたことがないかもしれない。最近の詩はやたら長い作品が多く見かけるのはなぜ?。

  • 映画とアメリカ文学の結合

    岡本啓『グラフィティ』を読みながら、映画を見ている気持ちになった。あるいはアメリカ文学の翻訳を読んでいるような。 描写(視線の動き方、ことばの切り取り方)が日本語の「なじみ」から少し逸脱している。 タイトルのない巻頭の詩。 肩のあまったシャツ もたれかけた指をはなすと 頬にニュースのかたい光があたった あっおれだ、いま 映った、いちばん手前だ ほらあいつ、ほら いまレンガを投げつける 端正な映像(描写/カメラ)の3行のあと、説明を省略して口語(声/会話)が動く。そのリズムのなかに話者の「肉体」がある。「肉体」が履歴をもっていて、それを直接「肉体(耳)にぶつけてくる。 こういう肉体表現を豊原清明も映画のシナリオで書いている。(たぶん岡本は知らないだろう。)映画の「文法」に親しんでいるのかもしれない。 きみは興奮しながらスープの豆を口に運ぶ 母親がひたしたスープ 煙がくるなか、担架を 肌のちがう二人が持ちあげて 走りさる 「煙がくる」の「くる」という動詞は書かれてしまうとそのまま読んでしまうが、なかなか自分で書くのはむずかしい。対象の見方が日本語からは離れている。日本語では「火がくる」「水がくる」というような人間の手には負えないものは「くる」かもしれないが、煙は火に付随するもので主語として「くる」というのは、なかなかむずかしい。「主語」になりにくい。主語になるときは「襲ってくる」とか「這ってくる」とか、複合動詞の形になるかもしれない。「くる」のような単純な動詞の主語になるには存在感が薄い。 で、あ、これは「翻訳」の文体、と私は思ってしまったのだが。 こういう新鮮な感覚が随所にある。 掃除機がなっている 礼拝堂のなか つるつるした木の背もたれ、お尻のところ どの椅子も そこだけニスが剥げている きっと月曜は毎週そうしてきたんだ Tシャツごしに せなかの死亡をゆらすかれは こちらを気にとめない (「椅子」) これも、映画。礼拝堂の内部が全景(遠景)でとらえられ、そこに掃除機の音(ノイズ/雑音)がある。礼拝堂の静けさと矛盾したノイズが、映像に活気を与える。カメラは全景から椅子へと動いていく。焦点がしぼられていく。眼(視線)が「つるつる」を通って触覚を刺戟する。それが「お尻」という「肉体」のボリュームへ動いていく。そういう径路を通って、再び「そこだけニスが剥げている」と視覚へ戻ってくる。 そして、「きっと月曜は毎週そうしてきたんだ」と転調する。自分のこころの「声」を聞く。「声」をことばにする。 映像と「声」の組み合わせ方が映画文法(アメリカ映画文法)にとても似ている。 あの日は それからつれだって ワシントン・モニュメントのほうまで演説をみにいった めのまえ 蚊がおんなの黒い肩にとまって おぼえてる すっぱかった すごいひとで おれは息があがってた (「8.28.1963 」) 岡本の実際の体験を描いているのかどうか、わからない。タイトルとなっている「日付(?)」からすると体験ではないのかもしれないが。 群衆を「めのまえ/蚊がおんなの黒い肩にとまって」といきなりアップの映像でつかみとるところが映画的だ。それから「おぼえてる」と「声」を重ね、「すっぱかった」と視覚を別の感覚(味覚? 嗅覚?)に切り換えて、肉体で「人間」をつかみとる瞬間の文体の短さ、文体の速さがアメリカ文学のようで、新鮮だ。 ほかにもこういう文体で書く詩人がいるかもしれないが、私は、最近、読んでいない。とても新鮮で、明るい気持ちになる。 詩の内容(意味)は明るくないのかもしれないけれど、文体の強靱さが、読んでいて気持ちがいい。 一方で、 シモバシラ ちいさな地球のおと 一晩かけてゆっくり地面をもちあげた そのちからに触れたくて おもわず掘りおこす やわらかなひかりを反射する つめたいかけら (「グラフィティ」) という日本の古典文学のような繊細なことばもある。漢字とひらがなのバランスを考えながらことばをていねいに動かしている。 排水溝へとつづく砂のながれも みずをほしがってた (「ペットボトル」) という美しい二行もいいなあ。 でも、詩が長くなるにつれて、映像と声の交錯が、モノローグになってしまっているような感じがする。それが岡本の本質なのかもしれないけれど、私は前半の映画そのものをアメリカ文学の文体で再現した感じの詩が好きだなあ。

  • なんだかベタな情景描写・・・・

    若いときは流行の小説読みたくて、片岡義男手にとって、その若者ぶりにダメが出た。 若者と言われて紅潮しない若者もいるわけ、昔のわたしのように。 ・・・いいにおいがした ・・・ふいのあついシャワーみたいな ・・・おれは息があがっていた ・・・熱をおびているようにおもう ・・・ひたいにあてるとまだすごくつめたい ・・・全身でみずをほしがるそのからだ ・・・ぼくのからだをはげしくぬらしてゆく ・・・ゆっくりほてりがひいてゆく ・・・そのふるえ ・・・激しい鼓動 ・・・この脈拍 ・・・ふるえる瞬間 ・・・涙をためた頬 ・・・あつい湯気 ・・・どこに肉体をさらしていたのか ・・・ゆっくりあたたまってくからだから動悸がやんで ・・・この足の指のあいだからしみだす涙のあたたかな感触で なんだかちっともわからないが 評価した方の思いは感づく。 性の暗示である。 暗示ばかりで、なんら描写ではない。 その贋物らしさが、おじさまたちの評価を得たと思われる。 若さで評価されちゃう若いお方たちは、その時点で詰んでおられる。 自己表現を正当化されちゃうと、もう他に道は見出せない。 。

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