失せる故郷
倉橋健一『失せる故郷』は、しなやかな語りのうちに生と現在への意志を交錯させる詩集です。深まる季節、孤独、身体感覚を通して、故郷を失う感覚といまここに立つ意志を硬質な言葉で描きます。
作品情報
深まる季節をつらぬき、失われる故郷と現在への意志が交錯する詩集です。
思潮社から2017年8月に刊行された詩集。ヨドバシの商品情報でISBN-10 4783735794、ISBN-13 9784783735793、109ページを確認でき、日本の古本屋でも同じISBNと刊行年を確認できます。岩手県立図書館の文学賞受賞図書展目録では、第55回藤村記念歴程賞受賞作として掲載されています。
レビュー要約
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紹介文では、闊達な語りの奥にある視線の強さと、季節の深まりを貫く現在への意志が前面に出ています。詩句の硬さと動きが並び、孤独を静かに押し広げる詩集として受け止められます。
書籍情報
- 出版社
- 思潮社
- 発売日
- 2017-09-01
- ページ数
- 109ページ
- 言語
- 日本語
- ISBN-13
- 9784783735793
- ISBN-10
- 4783735794
- 価格
- 254 JPY
- カテゴリ
- 本/文学・評論/詩歌/詩集
いつのまにかわたしのなかではあのいっぽんの角だけが引き受ける 乱反射の意味がわかる気がしていた サイはたちつくしているだけだった まさに素朴な直喩が使われ切ろうとしていた (「素朴な直喩」) 「不思議な孤独の達成点をもった一角獣よ/半盲に近い目で今日も見晴るかすのは/真っ赤に灼けて消えてゆくばかりの森の彼方だ」(「サイ転がし」)。しなやかにしたたかに、闊達な語りのうちに底光りする視線。深まる季節をつらぬいて、一つの生と現在への意志が鋭く交錯する。
1934年、京都市左京区生まれ。 59年「マルクスのゆいごん」で第二回現代詩新人賞佳作。 詩集に『現代詩文庫166 倉橋健一詩集』(2001年、思潮社)、『化身』(2006年、思潮社)、評論に『塵埃と埋火』(1981年、白地社)等がある。
レビュー
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ソネット形式の強さ
倉橋健一『失せる故郷』の巻頭の詩「素朴な直喩」は不思議な作品だ。倉橋って、こういう詩を書いていたっけ? そのときまだ若い一頭のインドサイは もの憂げに泥まみれのままいっぽんの角を高くかかげて 皺だらけの甲冑もどきの皮膚に被われた巨体を まるごとかすかにわたしのほうに向けたかに見えた でもそうではなかった わたしの背後では折から すべての湿原を赤々と染めあげた夕照が おもむろにその日の役目を閉じようとしていた かれはわたしの身体(からだ)を通過させながら彼方への直線を企てていたのだった 戦慄など寸毫も入り込む余地のない かぼそい視力がけんめいに独り歩きをしているのだった 虻の群れが横切ろうとも微動だにしなかった いつのまにかわたしのなかではあのいっぽんの角だけが引き受ける 乱反射の意味がわかる気がしていた サイはたちつくしているだけだった まさに素朴な直喩が使われ切ろうとしていた ソネットという形式(4/4/3/3行)が、ことばに緊張感を与えているのかもしれない。 目が形をとらえて、形のなかでことばが動く。そうすると、それは「整然」として見える。「整然」のなかには、力が働いている。それを目が感じてしまう。「意味」をつかみとるよりも早く。「意味」がわからないまま印象として働きかけてくる。 引用してみると「戦慄など寸毫も入り込む余地のない」というような行には、私の記憶している倉橋がいるから、目の印象など頼りないものだとは思うが。 でも、目にこだわってもうすこしつづけると。 一連目、特に、その書き出しの二行が印象的だ。 そのときまだ若い一頭のインドサイは もの憂げに泥まみれのままいっぽんの角を高くかかげて ひらがな、漢字、カタカナのバランスが「詩」を感じさせる。文字がそのまま、「実景」に見える。インドサイの角が、ことばのなかから浮かび上がり、光景になる。 視力が生きている、と感じる。 倉橋のことば(詩)は、視力を感じさせるというよりも、不透明な存在感、重さを感じさせるものだと記憶しているが、ここでは「インドサイ」という巨大な動物を描きながらも、重さがない。「インドサイ」と倉橋をつないでいるものが「視力」である、という感じがする。 「見えた」という動詞、「見る」という動詞が象徴的だが。 同じように、ひらがな、漢字、カタカナがまじっている書き出しには、例えば次のものがある。 トムソンガゼルに似た野性味たっぷりの小娘が 私が丹精こめて小さな花園でつむじ風になっている (我田引獣) 目覚めるとエンマコオロギになっているのだった すでに生きるのにふさわしくない季節になっているのではないか (霜枯れて) どうも「視覚」ではないものを感じてしまう。「丹精こめて」とか「生きるのにふさわしくない」という「意味(精神)」が自己主張することばが、「視力」以外のものを感じさせ、それが文字(ひらがな、漢字、カタカナ)のリズムを拒むのか。 うーん、よくわからない。 よくわからないままに書くのだが、この詩を「傑作」にしている要素、ことばの印象を強いものにしている原因は、ソネットという形式と書き出しの一連目(特に、最初の二行)にあるように感じられる。 「視力」と「音」が不思議に交錯して、世界が「ことば」として浮かび上がってくる。 で。 それでは「意味」は? あるいは「思想」は? そんなものはない。 この詩の最終行、そしてタイトルが正確に語っている。 まさに素朴な直喩が使われ切ろうとしていた ここに書かれているのは「直喩」なのである。夕暮れに見たインドサイ、それと夕日の関係が「直喩」。何の直喩かといえば、それを見た倉橋の「直喩」である。倉橋はインドサイを見たのだが、そのとき倉橋はインドサイになっている。さらに夕日の光にもなっている。湿原にもなっている。世界になり、宇宙になっている。 これは、別なことばで言えば「俳句」である。 インドサイを中心にして、ことばが「遠心・求心」の動きをし、世界・宇宙をぱっとつかみとる。 こういう「世界・宇宙」は「ひとめ」で見える(把握できる)大きさでないと、うまくいかない。(俳句の短さは、宇宙を「一瞬」に凝縮する。) ソネットの形式(行空き、ひとかたまりのことば)が効果的なのだ。 この詩がもしソネット形式ではなく、行空きのないべったりした作品だったら、印象が完全に違うと思う。 行空きも、ことばなのだ。「沈黙」が音楽(耳)にとって必要なように、「空白」は視界(目)にとって重要なのだ。