日本の文学賞

← 受賞作品一覧に戻る
狸の匣

中原中也賞

狸の匣

マーサ・ナカムラ

たぬきや匣といった民話的なイメージを、現代詩の自由な連想へ接続する詩集。ユーモアと不穏さが同居し、読む楽しさを強く感じさせる。

現代詩民話性ユーモア想像力

作品情報

民話の入口から、奇妙で伸びやかな詩の世界が開く。

思潮社刊の詩集。出版社ページでISBNが確認でき、中原中也賞の発表資料で受賞理由も確認できる。

レビュー要約

  • 時間や空間を柔軟に扱う想像力と、詩を読む楽しさを呼び戻す力が評価された。若い詩人らしい大胆さと親しみやすさが同居している。

書籍情報

出版社
思潮社
発売日
2017-11-09
ページ数
102ページ
言語
日本語
サイズ
13 x 1 x 19 cm
ISBN-13
9784783735953
ISBN-10
4783735956
価格
2200 JPY
カテゴリ
本/文学・評論/詩歌/詩集

タ テ タ テという音がなったが、 人が戻った音でも 雨粒が落ちた音でもなく、 参列にきた狐が(意味も分からず) 狸の背をたたいているのである (「柳田國男の死」) 幽明の、生物の、時空の境をこえ、詩想を自在に羽ばたかせる。2016年度現代詩手帖賞詩人による、待望の第1詩集。

レビュー

  • 異郷への憧れ

    難しい内容でしたが面白かったです!

  • 詩、言葉の力

    久しぶりに詩集を買いました。詩集の書名、狸の匣 にひかれたからです。こちらの思惑は、裏切られ、次から次へと言葉のつくり出す世界へとひっばりこまれました。言葉の力を堪能した一冊でした。

  • 絶妙な終わり方

    マーサ・ナカムラさんのような、次々とアドリブ的な発想が連鎖していく詩の場合、終わり方が大事になってくるように思う。無理に「論理的整合性」をつけて終わろうとすると、とってつけたようになってしまいがちだ。「美的な調和感覚」で終わろうとすると、支離滅裂で何が言いたいのか分らない、ということになってしまいがちだ。 「おふとん」という詩では、「父が壊れてしまっ」て、「愛子の心は下へ下へ沈んで、次第に見えなくなって」終わる。 死んではいないが、もうほとんど死にそうになっている。 「論理的整合性」とも言えるが、かろうじて「美的な調和感覚」なのかもしれない。 絶妙な終わり方だと思う。 ※「論理的整合性」「美的な調和感覚」というのは、河合隼雄さんという心理学者の人が、日本と西洋の物語の違いについて分析したときの用語。 「論理的整合性」の場合は、善と悪、成功と失敗、生と死、結婚と破局、幸福と不幸などの対局から、どちらか一方を選び、もう一方を完全否定して終わる。 「美的な調和感覚」の方は、どちらかに結論付けず、あいまいなまま、余韻を残して終わる。

  • なまなましさとメビウスの輪

    生命と無生物が渾然と混ざり合い、詩、脂、雌、屎、址、滓、屍、死、、、といったイメージから、何とも言えぬなまなましさが喚起される。それがこの詩の妙味なのだろう。 朝吹亮二は「奇妙な「匣」が続いていく」と言い、中本道代は「重層的な構造を持っている」と評す。確かに重層的ではある。「匣」という捉え方もあるが、私の脳裏には、完全に破壊されてしまって既に原形を留めていないけれども、ひとつひとつの断片にその原形の記憶がほんのりと漂いながらメビウスの輪を作り上げている、土星の環のようなイメージが浮かんできた。 この詩は、何故か南方熊楠や柳田国男を読みたくさせてくる。あるいは中沢新一でも良いか。いやいや、松浦寿輝の『半島』かな?

  • 付いていけなかった

    私の感性が古いのか凡人過ぎるのか。中原中也賞という事で購入、中原中也は大好きなんですが、、、この詩集は私の頭では理解不能でした

  • 比喩の不思議さ。

    マーサ・ナカムラの詩を読んだのは「現代詩手帖」の投稿欄が最初である。投稿作品のなかでは「許須野鯉之餌遣り」(2016年04月号)がとてもおもしろかった。この一作で「現代詩手帖賞」という感じ。感想は、2016年04月06日の日記に書いた。(http://blog.goo.ne.jp/shokeimoji2005/e/b247679d8aa4a52cc268925ced8fa83c )「丑年」(「現代詩手帖」2015年07月号)もおもしろかった。「石橋」についても、感想を書いたかもしれない。 で、きょうは違う作品の感想を書こうとしたのだが。これが、なかなかむずかしい。長い作品が多く、読んでいて「波長」があわない。もしかすると、私がおもしろいと感じているところと、マーサ・ナカムラが書きたいと思っていることが、完全に違うのかもしれない。 まあ、詩とは、そういうものかもしれない。 だから、私は「誤読」というのである。 「おふとん」について書いてみたい。朝、目覚めたときのことを書いている。 <blockquote> 隣に父がいない。無造作に置かれた青い枕に手を伸ばすと、薄地のパジャマが 布団の冷たさを通して、火照った喉を潤す。掛け布団が、ふうん、と、生臭い ため息をついた。 眠ると、体から、臭い汁が出る。父と自分の体は、室温に置かれて、同じ臭い になる。そこら中から、父の、眠った香りがする。 (お父さんには、樟脳の香りが似合うのに) </blockquote> この部分が、とても気に入った。特に「掛け布団が、ふうん、と、生臭いため息をついた。」が魅力的だ。「掛け布団」は人間ではないから「ため息」などつかない。だから、これは「比喩」なのだが、この「比喩」には「肉体」がある。 で、このとき。 つまり、「比喩」というものを考えるとき、私は、かなり混乱するのである。ここから「誤読」が始まるのである。 <blockquote> 掛け布団が、ふうん、と、生臭いため息をついた。 </blockquote> というとき、「比喩」は、なんだろうか。「ため息をつく」が「比喩」なのだろうか。そういう「あらわれ方」が「比喩」なのか。 あるいは「生臭いため息」の「生臭い」が「比喩」かもしれない。「ふうん」が「比喩」かもしれない。 何の? まあ、人間なのだろう。 あれっ、そう? わからない。 「比喩」をとおることで、「掛け布団」が「人間」になっている。そうであるなら、「掛け布団」が「人間」の「比喩」ということになる。 言いなおすと、「掛け布団」を「人間」の「動き」を借りて「比喩」化すると、「比喩」をくぐり抜けた瞬間、「掛け布団」と「人間」が入れ替わり、「掛け布団」が「人間」の「比喩」になる。 「掛け布団が、ふうん、と、生臭いため息をついた。」ということばを読んでいるとき、私は「掛け布団」ではなく、「人間」を思い浮かべている。言い換えると、 <blockquote> 人間が、ふうん、と、生臭いため息をついた。 </blockquote> と、私は知らず知らずのうちに読んでしまっている。「誤読」している。 でも、「人間が、ふうん、と、生臭いため息をついた。」だと、詩ではないんだなあ。「主語」が「掛け布団」だから詩なんだなあ。 「掛け布団」を人間のように感じながら、人間であってはおもしろくない。 でも。(また、でも、なんだけれど。) こんなふうに、「掛け布団」なのか、「人間」なのか、そのどちらかであるという具合に、固定化するとつまらなくなるのかもしれない。 「人間である」ではなく「人間になる」なら、「掛け布団である」ではなく「掛け布団になる」なら、どうなんだろう。 「掛け布団」が「人間」として「生まれてくる」。そして、「ため息をつく」。あるいは、「人間」が「掛け布団」に生まれ変わって(カフカの「変身」のように、「人間」以外のもの「生まれ変わって」)、「ため息をつく」。 そして、このとき。「人間になる」ことを支えるのが「生臭い」という、一種、否定的な感じ。「生臭い」。あ、いやだなあ、と思いながら、その「いや」な感じ、否定的な何かが、私の「いま」を否定する。破壊する。それにあわせるように、「ある」が「なる」にかわる。「否定的」であるから、逆に、その世界へすーっと入っていくことができる。吸い込まれてしまう。私自身が守っているものが破壊されて、生身になる感じ。 こんなことで、私自身の「感じたこと」を伝えられているのかどうかわからないが。 この「否定/いやだなあと感じること」によって、私が対象を「否定」するのではなく、逆に私自身が否定され、こわれて、生まれ変わるという運動が起きるというのは。 そのまえの、 <blockquote> 布団の冷たさを通して、火照った喉を潤す。 </blockquote> の「冷たさ」と「火照った」という対立(それぞれが他者を否定する)ということろから始まっているかもしれない。「冷たさ」「火照った」ということばを「肉体」で反芻し、「喉」ということばがさらに「肉体」を確かなものにし、そのあとに「ふうん、と、生臭いため息をついた」ということばがつづくとき、私は、その一続きの運動を、どうしても「私の肉体の運動」と錯覚する。 でも、もちろん書かれているのは「私の肉体」ではない。またマーサ・ナカムラの肉体でもないだろう。特定の「個人」を超える「肉体」がそこに出現しているのだと思う。「人間」を否定する「掛け布団」という「もの」が、「主語」の境目を壊してしまう。 たぶん、こういうところに「比喩」の強さの不思議がある。 私は詩を読みながら、「私の肉体」と「マーサ・ナカムラの肉体」を混同するのだが、詩のなかでは「愛子(詩の冒頭に出てくる主人公?)」が「父の肉体」と「愛子の肉体」を混同する。「境目」を見失う。「生臭い」息、「同じ臭い」になる。 <blockquote> 同じ臭いになる。 </blockquote> と、ここでマーサ・ナカムラは「なる」という動詞をつかっている。 その「なる」の奥には、 <blockquote> 眠ると、体から、臭い汁が出る。 </blockquote> ということがあるのだが、ここには「同じ臭い」の「同じ」が省略されている。この部分は、ことばを補うと、 <blockquote> 眠ると、体から、「同じ」臭い汁が出る。 </blockquote> であり、その「同じ臭い汁」が「同じ臭い」に「なる」なのだが、それが「同じ」と呼ばれるのは、「体」が「同じ(ひとつ)」ではなく、「愛子」と「父」という「ふたつ」のものだからである。 「ふたつ」のものが「ひとつ」としてとらえられる、というのは「比喩」でもある。「比喩」とは入れ替え可能のものである。 その「入れ替え」の起きている「場」が「掛け布団」なのだ。 「比喩」をとおして、何かが(私と、私以外のもの)が入れ替わる。入れ替わることで「世界」が「前のままの世界」なのに、「何かが違う世界」に「なる」。それは、気持ち悪いとも言えるし、気持ちいいとも言える。 判断できない。 気持ち悪いも気持ちいいも、たぶん入れ替わるものなのだ。 いま引用したあとに、 <blockquote> また、この臭いをかぐと、再び粘性の眠気がやってくる。 </blockquote> ということばがある。「この臭い」は直前の「父の眠った香り」でも「樟脳の香り」でもなく、「ふうん」という「生臭いため息」のにおいだろうなあ。 「眠気」という「場」が、必然として「気づかれている」という感じかなあ。

関連する文学賞