作品情報
漱石像を解体しながら、文学史と現代小説を軽やかにつなぐ作品です。
漱石をめぐる文化的記憶を参照しつつ、正統的な作家像から離れた場所で「先生」を再構成する小説です。引用やパロディの感覚を含み、近代文学への敬意と反抗が同時に走る作品として読めます。
書籍情報
- 出版社
- ベネッセコーポレーション
- 発売日
- 1992-03-01
- ページ数
- 360ページ
- 言語
- 日本語
- ISBN-13
- 9784828824215
- ISBN-10
- 4828824219
- 価格
- 26 JPY
- カテゴリ
- 本/文学・評論/文芸作品/日本文学
第20回(1992年) 泉鏡花文学賞受賞
レビュー
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逆教養小説として読みました。
物事を深く考えれば考えるほど、実生活が乱れてしまう。 普通の意味の教養小説と逆だ感じました。 特に前半は哲学的なものもあり、考えさせられるのですが 後半は構成も思想もやや乱れているように思いました。
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Prof. HIGAN
夏目漱石を下敷きにして描かれる 耽美と退廃をまっとうする彼岸先生と弟子との対話。 トリッキーな文体は完全に意図したもので 島田雅彦のしたたかさを伺える。 泉鏡花賞を獲っているが 島田文学が何らかの評価を得られなくなってしまうと 日本文学の未来を担う若草はすべて路頭に迷う。 日本の文学は村上春樹だけだと思っている人には一読してもらいたい。 人を常に煙に巻くような彼岸先生は灰汁が強く、 一度読むと妙な存在感がある。 セックスをためらわない冒険野郎の独白の いったいどこに夏目漱石の文学のかけらがあるのか。 古典の匂いを嗅ぐことはあえて不可能にしているところが、本作らしさだともいえる。
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人生になにを学ぶか
この本の面白さは最後まで読まないとわからないかもしれない。 最後といってもあとがきの最後の最後だ笑 いろいろと仕掛けのある本だったなぁと今になって思う。そしてそれがこの作品の魅力なんだろう。 内容は8割が彼岸先生による恋愛論や、人生哲学が書かれていて読む人によっては退屈なものになっただろう。かくゆう私も何度も投げ出そうとしてしまった・・・・。 この作品は現代版の『こころ』として紹介されているけれど、『こころ』と似ているのは「先生」がいて「先生」から人生を学ぼうとする「僕」がいるところ。 そして「僕」に「先生」からの懺悔のような手紙が届く。以上の点ぐらい名ものだと思う。 私としては、『こころ』とはまったく別のものとしてこの作品を紹介したい。
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何が本当で何が嘘か
なぞの多い小説である。 1) 先生の日記の冒頭に「日記には嘘しか書かない」とかかれている。この言葉を言葉どおりに受け取れば、アグネスもパットも架空の人物だということになってしまう。しかし、そういうわけでもなさそうである。では、どこまで本当なのか。 2)ラストの手紙は誰が書いたのか。響子さんの署名になっているが、蓮見重彦氏の解説によると作者は菊人らしく、証拠は彼岸先生という彼独自の呼び名が使われているからとの事。 3)そうだとすれば、なぜ、菊人は響子さんの名で書いたのか。先生と「魂の交流」をするためか。それとも、響子さんと先生の魂をつなごうとしたのか。 4)響子さんは本当に亡くなってしまったのか。菊人は彼女に対し先生の発狂は演技に過ぎない。と言って安心させようとし、彼女もそれに反対しない。だとしたら、なぜ、砂漠に行く必要があるのか。それも「魂の交流」か。 5)先生が日記を菊人にたくしたところを見ると発狂は予定されていたらしいが、予定通りに発狂などできるのだろうか。発狂は完全に演技でもなさそうであり、入院前、日記に支離滅裂なことがかかれている。どこまで演技でどこまで本当なのか。 6)先生は、本当に女好きなのか。では、なぜ愛してくれる女性(アグネス、妻、響子さん)からいつも逃げ出すのか。あまり熱心に愛されると窮屈だからか。なら、ほどほどに愛されれば満足するのか。むしろさびしがるのではないか。響子さんが自分を理解しすぎていて怖いというのはわからなくもないが。一人の人間が他の人間を完全に理解できるはずないし、妄想もある。 7)アグネスに対しても、情熱恋愛というよりも美人に好かれたから付き合わなければ損、みたいな気持ちで始まっているようだ。どの程度好きかもはっきりしない。セックスに関してもサービス精神を発揮しているが、無理をしすぎて疲れてしまったようだ。今日は疲れているといえず、常に相手を喜ばせ、相手の期待にこたえようとしている。これでは、長続きしないはず。また、長く付き合う気もなかったのかもしれない。 欧米文化圏には騎士道のながれを汲む恋愛至上主義みたいなのがあり、それは先生のように 恋愛は始まるともなく始まり終わるともなく終わっているといった考え方とは異質である。最も個人差もあり、最近の若者はあまりべたべたした関係を好まないらしいが。アグネスは愛するときは徹底的に愛する性格のようであり、先生は彼女に対して自分がいい加減な人間であることをはじめに言っておくべきだったと思う。マア言いにくいのはわかるが。パットに対しても同じ。ゲイではないとあらかじめ言っておくことができなかったためややこしいことになっている。もっとも、おかげで貴重な体験をしたといえなくもないが。 8)先生は菊人に何を伝えようとしたのか。 おそらく、作者は、そして先生もこんな理屈っぽい疑問はわらいとばすでしょう。適当に汲み取ってくださいといいそう。
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面白くなかった…
ご自身の女性遍歴を参考に(?)、いかにも純文学的な要素を屁理屈をこねくり回し、謎解きを匂わせて 漱石的小説を作りあげたという感じなのかな(もう読むのが苦痛になって途中から投げやりに読んだけどw)。 解説最後で解説者によって大きな謎解きが行われるが、もはやどうでもいい感じだった。 純文学は当たりはずれが少なくないけど、これは時間の無駄だったなあ。
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先生の位置
はじめの先生と僕との関係の構築部分、そして先生の日記、その後におとずれる発狂。この小説は、先生と僕の位置を表しているようだ。自分の目には、関係人物がどんどん少なくなっていくように思えた。あまたいたキャラクターが、先生と僕だけになり、僕ひとりになり消えていった。迷いたい人にお勧め。
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要するに失敗作
後年の島田の、いかにもやる気のない感じはなくて、懸命に書いていることは分かる。漱石の『こゝろ』を下敷きにして、さまざまな女と性の遍歴を繰り返した「先生」が遂に狂ってしまうという話なのだが、刊行当時は賞も受けて評判になったものの、一向に面白くない。結局は失敗作ということなのだろう。島田には事実上華麗な女遍歴があるはずなのだから、それをそのまま私小説として書けば、もっと面白かったと思う。
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なんだかなあ・・・
島田作品をはじめて読んだ。何かで紹介されていて表紙に惹かれて購入し1年位寝かせておいて今月やっと読み始めた。はじめは弟子である菊人の一人称で語られる彼や先生の日常。菊人は大学生だが裕福らしく、生活感のない生活を送っている。先生も同様でふわふわと現実味のない日常が綴られる。食事のシーンもあるが、まるで霞を食べて生きてるようで二人の風貌は作者のそれとシンクロしてしまう。作品内に連綿と綴られる沢山の女性とのセックスシーンも全くもって霞のようだ。食事をするように行われるそれは普段の挨拶と変わらない。ただの女好きの話かと思いきや、読んでいくうちにその印象が変わって行く。最終的には現実世界から離れていく先生だが、意外と面白かった。結構過激な性描写もあるが、軽快の文体で何となくおしゃれで肉感的じゃない。ポルノ?文学?恋愛小説ではないと思うが、やっぱり平成版「こころ」なの かも。一体何なんでしょうかねえ。
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