作品情報
薄明の街を歩きながら、喪失の手触りを言葉にする。
野村喜和夫の『薄明のサウダージ』は、薄明の街を歩く感覚と、そこに滲むサウダージを詩のかたちで捉えた一冊。現代詩人賞受賞作として刊行された。
書籍情報
- 出版社
- 書肆山田
- 発売日
- 2019-05-20
- ページ数
- 178ページ
- 言語
- 日本語
- サイズ
- 14.7 x 1.7 x 21.6 cm
- ISBN-13
- 9784879959867
- ISBN-10
- 4879959863
- 価格
- 3080 JPY
- カテゴリ
- 本/文学・評論/詩歌
〈著者メッセージ〉 薄明が好きでした。サウダージという言葉が好きでした。このふたつを詩において出会わせると、どんな化学反応が起こるのでしょう。本書はそのささやかな実験の記録です。
野村喜和夫 1951年生れ。詩集『骨なしオデュッセイア』『デジャヴュ街道』『久美泥日誌』『難解な自転車』(藤村記念歴程賞)『言葉たちは芝居をつづけよ、つまり移動を、移動を』『ニューインスピレーション』(現代詩花椿賞)『風の配分』(高見順賞)『草すなわちポエジー』『特性のない陽のもとに』(藤村記念歴程新鋭賞)『わがリゾート』ほか、評論エッセイ『哲学の骨、詩の肉』『移動と律動と眩暈と』(鮎川信夫賞)ほか、翻訳『ヴェルレーヌ詩集』ほか
レビュー
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野村の論理と音楽
野村喜和夫『薄明のサウダージ』。一篇だけの感想を書くことでは詩集の感想を書いたことにならないのはわかっているが、一篇だけ引用する。いや、一篇の一部を。 かつて すべては象であった と模造の象のうへで喚いてゐる 「模造の象のうへで喚いている」は「事実」であるかもしれない。しかし「かつて/すべては象であった」というのは、「事実」であるとは言えない。「すべて」が「象」であるとは思えない。「象」以外にもトラや犬もいるだろう、草や木もあるだろう、人間だっているだろうし、家だってあるだろう。それら(すべて)は「象」ではない、と思う。 もし書き出しの二行が「事実」であるとするならば、そこには前提がいる。 かつて すべて(の象)は(ほんものの)象であった (つまり、模造の象はいなかった) と模造の象のうへで喚いてゐる と、ことばを補えば、最初の三行は「論理的」になる。野村は「でたらめ」を書いているようであって、実は「論理的」にことばを動かしていることになる。 これが、きょう、私が書きたいことである。 「論理的」というのは、ただし、少し(かなり)説明がいる。ふつうの「論理的」とは違うからである。 詩の続き。 あれはだれか 雲の二乗と二倍の雲の和は 象であつたし 女を二乗して三倍の私の影に加へたものから 空気を抜けば ひとひらの海のやうな象であつた これは、どうみたって「でたらめ」の算数である。こんな計算が成り立つはずがない。算数にならない。 しかし、ここには「論理」がある。どういう「論理」かというと「算数」をつかうという「論理」である。算数をつかいつづけるという意味においては「論理的」なのである。言いなおすと、この詩は、 あれはだれか 雲の二乗と二倍の雲の和は 象であつたし 女に塩酸と過酸化マンガンを加え、フランス語に翻訳したものから ドストエフスキーの述語を取り除けば 加速器のなかで衝突するクオークのやうな象であつた と、もっと「でたらめ」に書くこともできるからである。 しかし、野村は「科学/化学」「語学」「文学」「物理」というような「方法」をごちゃまぜにせず、常に「算数(数学ではない)」を「方法」として選び、そのなかでことばを動かしている。 「方法」の一貫性において、野村は「論理的」なのである。 女を四倍にして海を引くと 女と私を足して二倍した風に さらに一本の樹木を加へたものに等しい といふ象であつたし 時のたまり場から虹や雪片を 引いたものを二乗すると 女に私を掛けて涅槃を引いた墳墓に等しい といふ象であつた 狂ほしいほどに象であつた ね、「算数」しか出てこないでしょ? 「算数」のまわりに「女」とか「海」とか「樹木」とか「虹」とか「雪片」とか、すでに詩でつかいふるされたことばが飾られる。「涅槃」「墳墓」は多少風変わりだが、それにしたって「現代詩」を読む人ならどこかで読んだことがあることばだろう。初めて触れることばではないだろう。 こういうことばをつかって、野村は何をやっているか。 私のことばでいえば「音楽」である。 「音楽」は大きく分けて二つある。「クラシック」と「ジャズ/ポピュラー」。違いは何か。大雑把な感じを言えば……。クラシックは「旋律」は演奏者が変えることはできない。でも「テンポ」は指揮者まかせ。指揮しだいで「テンポ」が変わり、「テンポ」の変化とともに曲の表情が変わる。「ジャズ/ポピュラー」は逆。「リズム」はドラムが中心につくりだし、一曲の間、それは変わらない。しかし「旋律」は演奏者の勝手にまかされることがある。アドリブだね。私は音楽の専門家ではないから、まあ、いいかげんな「定義」だが。 野村のやっていることは「ジャズ/ポピュラー」に近い。この詩の場合は「算数」という「リズム」が守られている。「算数」という「論理」を「リズム」に替えて、作品を統一し、「旋律」は思いつくままに。 私は、野村の、この軽い音楽が気に入っている。「大好き」(これがないと生きていけない)というのではないが、「嫌い(腹が立つ)」ということはない。同世代ということが影響しているかもしれない。「音楽」というのは「通時性」よりも「共時性」が強いものなのかもしれない。
関連する文学賞
- 現代詩人賞 第38回(2020年) ・受賞