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日本語存在表現の歴史 (日本語研究叢書 第 2期第3巻)

新村出賞

日本語存在表現の歴史 (日本語研究叢書 第 2期第3巻)

金水敏

日本語の存在動詞「ある」「いる」「おる」を中心に、その意味・用法・機能が歴史のなかでどのように変化してきたかを追う研究書です。文法史と語用論の視点から、現代語に至る存在表現の成り立ちを明らかにします。

日本語文法史存在表現語用論日本語研究

作品情報

「ある」「いる」「おる」の歴史から、日本語の存在表現を読み解きます。

基本的な存在動詞を軸に、古典語から現代語へ続く日本語表現の変遷を論じます。存在・所在・所有・状態をめぐる表現が、時代や文脈のなかでどのように使い分けられてきたかを考察する専門的な日本語学の著作です。

書籍情報

出版社
ひつじ書房
発売日
2006-02-20
ページ数
327ページ
言語
日本語
ISBN-13
9784894762657
ISBN-10
489476265X
価格
5500 JPY
カテゴリ
本/人文・思想/言語学/日本語・国語学/日本語研究

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レビュー

  • 目次の必要性

    購入して良かった。 いろいろな紹介文を読んで不必要だと想っていたが、ふと予感がして購入。 紹介文には必ず目次を添付してほしい。 そうであればもっと早くに購入していただろう。

  • 言語実体観に基づく形式主義言語論の、直感にたよる奇妙な論理

    著者は、第「1章 存在表現の構造と意味」の「1.1 導入および先行研究」で≪そもそも「存在」とはどのような意味であるのか、またその変異の幅はどのようであり得るのかという点について、一定の枠組みを得ることが作業上不可欠となると考える。≫と記しながら、次には「まず主要な先行文献を取り上げ、問題点を整理していく。次に、意味論・統語論を援用しながら、本書の立場からの、存在表現の分類案を示す。」だけで、「作業上不可欠な」、≪「存在」とはどのような意味であるのか、またその変異の幅はどのようであり得るのかという点について≫は全く解明されないまま、直感を頼りに単なる形式主義的な分類を示すだけの現象論を展開しています。 先行説を検討した後、「1.2 存在文の意味的分類―空間的存在文と限量的存在文」では、≪筆者の直感では、有生(animate)の主語を取った場合、厳密に「いる」しか用いられない種類の存在文と、有生主語を取っていても「ある」が許容される種類の存在文がある。≫と直感に基づいた議論が展開されています。これは、最初に記した通り、存在とは何か、意味とは何かの本質論をもたない言語実体観に基づく形式主義言語論では「ある」と「いる」の相違を論理的に展開することが出来ず、直感に基づく、形式論理を展開するしかない限界を露呈しています。言語実体観では文を実体と見なし、その文が許容されるか否かを論ずるという生成文法の非文という直感的な基準しかない現象論であることを明かしています。 さらに著者は直感を基に、「存在文」を「空間的存在文」として「所在文」「生死文、実在文」、「限量的存在文」として「部分集合文」「初出導入文」「限量的存在文」に現象的に分類し、各々の「ある」と「いる」の分類を行っています。「生死文、実在文」では次のような論を展開し言語実体観の誤謬を証示しています。 (35) 父は{ありません/いません}。 のようにすると、「ある」がまったく問題なく許容される。これは限量的存在文の一種である所有文(後述)に類型が変わったためで、個体を指す呼称としての「お父さん」と普通名詞としての「父」との差異、また時間の推移に伴う状況変化を含意する「もう」の働きなどが作用しているものと考えられる。 結果としての文の類型が変わるのは話者の対象の捉え方の相違によるものであり、「父」や「もう」という語が作用の働きを持つなどというのは言霊的言語観でしかありません。 著者は先行説の検討で、三浦つとむの『日本語はどういう言語か』から例文を引用し、次のように評しています。 ここでは、日本語の存在表現の歴史的な変化を示唆し、以前はすべて「ある」であったが、「時間的・空間的な特殊性」を扱う場合には「いる」に代えられるようになった、と考えているのである。ここで言う「時間的・空間的な特殊性」がどんなものか、また「抽象的な人間のとらえかた」とはどういうことを言うのか、という点については十分明かにされていない。 著者の言語観からは、この三浦の本質的な指摘を理解することは出来ないであろうことは明かですが、この三浦の著書では引用の部分に続けて、次のように記しています。 実際はもっと現象的に、「ある」は動かないもののとき、「いる」は動くもののときに使っています。貝類のアサリやシジミは、実際には動いていても、他の生物のような大きな動きをしませんから、「おくさん、いいアサリがありますよ」「けさ買ったシジミあったろう」と「ある」を使っています。ハトやカナリアなどの鳥も、鳥屋では鳥籠に入れられていて自由に飛べません。大きな見方をすれば、動けない状態にあります。鳥屋の店員も「ハトあります」「カナリヤあります」と、「あり」を使います。…… と、「ある」と「いる」の本質的な相違を明示しています。残念ながら、著者の観点からはこの本質的な解明が理解できなかったようです。そして、対象の抽象的な認識についても森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』から例文が引かれ説明されているのですが、著者には理解できなかったようです。 この本質の指摘が、存在文を種々に類型化し事例を並べ立てるに過ぎない本書の現象論を一蹴しているのは明かです。三浦は『日本語の文法』で存在についてその本質を明らかにし詳細を論じていますが著者は眼を通していないようです。 このような現象論的な解釈を基に、歴史的変遷を辿っても単に形式的な解釈を提示する以上には出られないのは論理的必然です。資料としての意味はありますが。 言語実体観に基づく形式主義言語論という非科学的な論理の誤りを正して出直さなければ言語の本質的な理解は望めません。■

  • 日本語の存在動詞に関する包括的研究

    日本語の存在動詞「ある」「いる」「おる」について、その意味、用法、機能の歴史的展開について文献を通じて包括的・立体的に明らかにした労作。 このように3語もの存在動詞を持つ言語が珍しいという問題意識や、「いる/ある」の有生性の原理や、敬語や方言のバリエーション、そして補助動詞やアスペクトへの展開といった様々な諸問題が論じられ、明晰な観察と洞察が示される。 伝統的な国語学の資料のみならず、記号論理学や、文法化などの近年の言語学理論の道具立てが縦横無尽に用いられ、さながら「金水敏」学の集大成といってもよい充実の一冊である。

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