作品情報
谷間の村で、百年を隔てた暴力と祈りが響き合う。
大江健三郎の代表作の一つで、英訳は The Silent Cry として知られる。講談社文芸文庫版などで長く読まれてきた。
レビュー要約
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作品の緊張感と人物の陰影を評価する声がある一方、時代背景や文体の重さをじっくり受け止める読み方が求められる。
書籍情報
- 出版社
- 講談社
- 発売日
- 1988-04-04
- ページ数
- 492ページ
- 言語
- 日本語
- サイズ
- 10.8 x 1.7 x 14.8 cm
- ISBN-13
- 9784061960145
- ISBN-10
- 4061960148
- 価格
- 2090 JPY
- カテゴリ
- 本/文学・評論/文芸作品/日本文学
友人の死に導かれ夜明けの穴にうずくまる僕。地獄を所有し、安保闘争で傷ついた鷹四。障害児を出産した菜採子。苦渋に満ちた登場人物たちが、四国の谷間の村をさして軽快に出発した。万延元年の村の一揆をなぞるように、神話の森に暴動が起る。幕末から現代につなぐ民衆の心をみごとに形象化し、戦後世代の切実な体験と希求を結実させた画期的長篇。谷崎賞受賞。
レビュー
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君は本当のことを言った。
読書会で使用しました。 最高に面白かったです。最初は死にそうになりながら何回も読み直してなんとか進めましたが、後半では文体にも慣れて楽しめました。 一つ一つ丁寧に読んでも、パッションで読んでも面白い神作。
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衝撃的
これまで読んだなによりも面白い。ドストエフスキーの余計なとこ削ってもっと面白くした感じ。クライマックスで散々盛り上げた後のエピローグ部分でも緊張感を終幕まで維持するあたりは初期作品群から一段成熟した感じがした。若干前半はあれだったけど真ん中らへんから突然面白いエピソードを緊密に入れ込んで飽きさせない。百年前からのバックストーリーもきっちり作って重厚な傑作だった。いろんな個性的キャラクターに初期作品で顕著だったヘンリー・ミラー風ユーモアも感じたけど、総じてユーモアは減少して重厚感が増した印象です。
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終盤、超展開すぎるほど畳みかけているが、そこが魅力でしょうか?
終盤の超展開はともかく、一度通して読んだうえで、改めて一章の内容と感想を記します。 【内容】 学生運動に巻き込まれて頭部を殴打した親友の狂気じみた縊死、障害を持って生まれた赤子、アルコール依存症の妻と共に家畜さながらの荒んだ日々を送る語り手蜜、そして裏側では学生運動家として思想に傾倒した蜜の弟、鷹のアメリカでの頽廃的な日々の断片が、終盤で語られる「本当のこと(鷹の抑圧ともいえよう)」の上部構造として綴られるイントロダクションである。 死んだ母親による蜜に劣等感を植え付ける一方的な予言、鷹の抑圧の上部構造、最も常識的な感性を持ち合わせまま、それゆえに家族のことで苦悩する妻の頽廃、縊死した蜜の分身たる友人の表象が一挙に描写され、直線的な時間軸と共に語られる二章以降の駆動として濃密に凝縮されている印象をうける。 【感想】 全裸で肛門に胡瓜をさし、頭部を赤く染め縊死した現実離れした親友像は蜜にとってとてもリアルに切迫した問題で、周囲との関係が孤絶され緩やかな死へと至りつつある蜜の内面に、まさに表象としての綜合的な死(吉本『共同幻想』遠野物語)をもたらしており、のちの章で、蜜の自閉的傾向が強まったときたびたびしつこいぐらいに現出してくる。 一方で、社会規範から大きく逸脱した親友の相貌が、小説的な文脈において表象としてしつこく反復されるとき、村上春樹の『1Q84』の冒頭で克明に繰り返し描き出される主人公の記憶<自分の母親と思われる女の乳房を吸う見知らぬ男の像>と同様に、かえってユーモアとしての特性を帯び始めつつあるかもしれない。 精神医学ではトラウマ足りえるイメージが、物語として繰り返し語られることによって、半ば皮相的にユーモアとして結晶化しているとするのはインターネットに毒された私だけの妄想か? 友人の死に立ち会ったときの生々しい腐敗した亡骸にまつわる記憶が、着実にいまなお死にゆく蜜(あるいはまったく反対に社会から離反しすっかり動物的な変貌を遂げ、もはや最も切実に本能的な生を希求した存在ともいえる蜜、それはまるで胚種に猥雑に手足が生えたような自由な個体のようである)に奇妙な親近感をもたらしており、浄化槽のなかで闇と解けあう逸脱した身体的表現は注目に値する。 さて、物語の大きな仕掛けとして明るみになる、悔悛した学生運動家としての役割に透徹する鷹の破滅的な行動の裏にある抑圧が一体何なのだろうか? と読者に思わせることには成功しただろうか?(私は、あくまで読書に不慣れな私はなのだが、あまりにも濃密にすぎるゆえにただ強い抵抗感をもって一章を読まざるを得なかった。) また鷹だけでなく、蜜に囁かれた母親の予言、「お前は鷹とは正反対にいずれ醜くなるだろう」、が着実に蜜の心象に明瞭な歪みをもたらせていることを、あたかも構造外部の語り手としての蜜自体から読者が超越して感じ取ってやらなくてはならないのだろう。
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終盤に一気に物語が動いたが、その前の200ページぐらいは忍耐が必要だった。若い頃の作品を読み返そうか悩む。
大江健三郎の代表作の1つであることは知っていたが、本の値段が高いこともあり、今回が初読み。非常に期待して読んで、冒頭からの100ページぐらいは、「スロースタートかな」と思うぐらいだったが、150ページ~350ページぐらいにかけては、あまりに物語に動きがないので完全に飽きてしまって、何度も読むのを辞めようと思った。しかし、「芽むしり仔撃ち」でも終盤一気に面白くなったので、辛抱して読んでいたところ、350ページぐらいから一気に物語が動いて、そこからある意味、オチ、大オチと畳みかけてきたのだが、正直これだけ引っ張ったにしては、オチも大オチも弱いと思ったし、何より、終盤までの記述があまりに冗長過ぎると思った。大江健三郎は、あとがきで本作のことを「乗越え点」と形容していたが、ちょっと自分は、振り落とされてしまった感じ。ある意味、作者が書きたいものを書いているということで、「作品」としては立派なのだろうが、自分は単に面白い物語を読みたいので、もう少し、読者のことを意識してくれる作品を読みたいと思った。若い頃の大江健三郎作品は傑作ぞろいだったが、若くない頃の作品を読んで2作連続で面白くなかったので、このまま未読の作品を読み続けるか、または若い頃の作品を読み返すかは、大きな迷いどころ。また、少なくとも、ちょっともうこれだけ長い作品は、少なくともエンタメジャンルではないならば、しばらく敬遠しようかと思った。
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詳細な作家案内が載っているのが良い。
大江健三郎を考えるとき、川端康成や三島由紀夫と比べるとわかりやすい。 川端、三島は自分の生きている時代を題材にしないのに対して、 大江は題材にする。戦後の復興期、高度経済成長期の闇を徹底して書いてきた。 だからこそ障害をもった子供が産まれたことは、無視できないし、無視しないわけだ。 加えて自己とか故郷、アイデンティティというものを強く意識している作家だと思う。 主人公が妻と離婚寸前までいったのは、たぶんそういう意識の強さだと思う。 西洋文学的な愛や恋の意識は薄いから。
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地下室に隠されていた真実
片目が潰されている主人公。これは「アグイー」の続編? 壊れた友人に壊れかけた弟(鷹)、そして主人公(蜜)夫妻も壊れかけ(障害児を施設送りにしてから)。 屋敷売却のため地元に戻って幕末に一揆を起こした曽祖父の弟と次兄の伝説を調査。鷹はよくヒロイズムで誰かを美化改変する癖がある。故郷の田舎の若者たち相手に指導者的地位を得て自分を発見、復古的ロマンに走る。蜜の妻まで寝取るが、昔妹を死なせたトラウマから逃げきれずに最後は自殺する。 鷹の死後、屋敷の解体で地下室が発見され、曽祖父の弟は実は脱走せずそこで生涯を終えていたことが判明する。 感動した蜜は、それまで保身的だった半生を改めて鷹の精神を継いでアフリカへ冒険の旅に出るのだった。
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ノーベル賞級の作品の歴史洞察の射程
大江健三郎のノーベル賞の受賞理由の記された文書に代表作として挙げられているのが本書「万延元年のフットボール」(1967)であり、そのノーベル賞の受賞の記念講演が「あいまいな日本の私」(1994)であるが、もちろん両者は繋がっている。 「あいまいな日本の私」で述べられているのは、日本という国は、万延元年のころ開国を迫られて以来、日本と西欧の両極にアンビギュアスに引き裂かれ、そのことによって条件付けられた歴史を辿り、それ故の傷を(これは勿論日本に侵略されたアジアの国も)負った、ということだが、日本という国の抱え込むアンビギュイティが「万延元年」に縦横に張り巡らされるよう書かれている。 /小説の背景の安保闘争というのがアンビギュアスなものであった。日本の中で激しい意見対立があり、両陣営に分かれて争ったことがそもそも両義性なわけだが、両陣営ともそれぞれ両義性を抱えていた。左翼の安保反対には反米という愛国的情念は拭難くあったであろうし、vice versaで右翼も戦勝国アメリカに屈服する怨恨を抱え込んだ。この両義的なものが複雑にからみあったコンプレックスはいまの日本においても解消されず残っているだろう。/ 主人公たちが帰郷する村には、西欧化の帰結である経済の進展によってスーパー・マーケットが進出している。これには一方において消費経済の魅惑であるが、一方で社会の均質化・地縁共同体の解体という傷をもたらす。グローバライゼーションの問題を大江は既に1960年代に作品に書き込んでいる。/作中、スーパー・マーケットの経営者が在日コリアンであるのも事態を複雑化している。当初は西欧化に抵抗したものの路線転換し「脱亜入欧」し、後進的なものと蔑視していた隣人が、経済的に優位にたっている。そこからもたらされる鬱屈した情念は暴動に発展するわけだが、こういう事態も非常に今日的である。この蔑視の対象が作中「天皇」と呼ばれるのもアイロニカルで含むところは大きいだろう。/こうやってつらつらと書いてきて、作家はいまなおリアルな問題、というよりもむしろ執筆当時以上に、グローバライゼーションの進展、社会的無意識=汚いホンネがダダ漏れに露呈する技術条件であるインターネットの普及、により1990年代後半ごろからよりクッキリと見えてきた問題群を1960年代において完全に視界に入れているのに驚かされる。経済不安の鬱屈のはけ口のヘイトデモやネット書き込み、被害者意識と蔑視感情のコンプレックスの歴史修正主義、そうしたネットウヨク的問題の構造はノーベル賞級の巨人的な作家からすれば「「想像力」的には大昔にとっくに全部見通し済みだぜ」ということなのである。図星を突かれた彼らがネットで血相変えて大江叩きにはしるのも気持ちはわからなくはない。 ・・・と、こういう紹介をすると、最近の若い人の政治忌避の流れから「そういう重たい話はちょっと・・・」となってもよくないので付言すると、本書はまことに多面的な世界であり、上記は多面のなかの一面から本書の洞察の深さを語ってみただけであって、ノーベル賞が”fundamentally the novel deals with people’s relationships with each other in a confusing world in which knowledge, passions, dreams, ambitions and attitudes merge into each other.(基本的には、この小説は、知識、情熱、夢、野望、態度が溶け合った混乱した世界における人々の関係を取り扱っている)”と世界に向けて紹介している通り、本作はある国の特殊事情を語っているだけではない誰でも共感できる普遍的な物語である。主人公夫婦には知的に障害を持った子供が生まれ、その失意から関係が崩壊している。彼ら崩壊家族の恢復の物語がこの多面的世界を貫く基軸である。 自分がレビュアーとして多くの人に本書を手に取って欲しい理由として、本書の魅力として第一に挙げたいのは、本書の破格の文体である。大江の文章は、彼を否定した向きから鬼の首をとったように「悪文だ」などと言われるわけだが「美しい日本の私の美しい日本語」などというのはジョイスやらフォークナーやらを経た後の20世紀の世界文学の課題では全くないのであって、全く批判が届いていない。退屈な美しさなど破砕しながら、イメージの奔流が怒濤のように押し寄せてトグロを巻く本書を母語で読めるということは令和元年、「美しい国へ」とかいうスローガンがいよいよお笑いになってきた、洒落にならないこの国に生きていて得られるすくない僥倖の一つといえるであろう。是非、本屋で手にとって(kindleでもお試しの無料サンプルをダウンロードして)第一章の「死者にみちびかれて」を5、6ページ読んでみて欲しい。
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100年の時を超えて重ねられる「闘争と敗北・再生」の記憶
1967年作。初期の代表作の一つだが、何とも不思議な世界の小説だった。 万延元年(1860年)、幕末政変期に四国の森のある村で起こった一揆騒動と、1960年安保闘争で敗れた主人公の弟~そして、戦中強制徴用されてきた朝鮮人集落と戦後の混乱期のある襲撃事件~その後その一帯を買収し支配する「スーパーマーケットの天皇」と呼ばれる朝鮮人~100年の時を経て重ねられる「村人の暴力」「権力への対抗」とその敗北の重層構造。しかし、朝鮮人集落という設定は「芽むしり仔撃ち」でも出てくるし、大江氏の少年時代、実際に愛媛の村にそういう集落があったんだろうか? ここでは東大在学時の短編などより明らかに各センテンスが長くなっていて、中期・後期の「うねうねと曲折しながら前に進む」ような大江氏独特の文体の萌芽がある。そして中期以降の作品に登場する「隠遁者ギー」も出てくる。 支配への人々の闘い~敗れてなお生きていかねばならない生存者の屈折~村落共同体独特の人間関係・・・濃密な文体で綴られる物語は決して明るくはない。ラストに希望らしきものはあるが、私には東大在学時の短編諸作のほうがしっくり馴染んで読めた。 次は「洪水はわが魂に及び」を読んでみる。時代遅れの”大江健三郎マイブーム”~(*^^*)
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