日本の文学賞

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聖水

文學界新人賞

聖水

青来有一

死に瀕した父が、幼なじみの男の差し出す「救済」にすがろうとするなかで、家族の関係と信仰の輪郭が静かに揺らいでいく。青来有一の代表的な短編として、長崎を背景にした祈りと喪失の感触が深く残る。

長崎信仰家族救済喪失祈り

作品情報

救いを求める心は、どこへ向かうのか。

文藝春秋の単行本『聖水』は、芥川賞受賞作を含む四篇を収めた作品集で、『ジェロニモの十字架』もここに収録されている。家族の病と救いのかたちをめぐる物語は、宗教的な問いと日常の手触りを近い距離で行き来する。

レビュー要約

  • 信仰と家族の揺らぎを、過度に説明しすぎず静かな筆致で追うところが評価されている。題材の重さはあるが、読後に余韻が残るという受け止め方が目立つ。

書籍情報

出版社
文藝春秋
発売日
2001-02-01
ページ数
315ページ
言語
日本語
ISBN-13
9784163198903
ISBN-10
4163198903
価格
49 JPY
カテゴリ
本/文学・評論/文芸作品/日本文学

死に頻した「父」は、サギ師とよばれる幼なじみに「救済」を求めたが……芥川賞受賞作を始め物語の面白さを満喫させる四篇を収録

レビュー

  • 「聖水」は、大傑作です。

    収録作、すべてが面白い。お買い得感あり。

  • ひとつぶでにどおいしい

    この作品はですね。【ひとつぶでにどおいしい】本なんです。 この本には四篇の作品が所収されていますが、そのうちの二作品が文学賞受賞作だったので先ずは購入した次第であります。 内容はですね。 ジェロニモの十字架は、まあ、おじさんが二重人格でって落ちで終わりなんですけど、主人公は声を失ってまして、それがきっかけで、心の中に暗い洞(うろ)の様なものを見つけるんです。でもどうも隠れキリシタンというかキリスト教色が根幹にあり、宗教をアンチなのか肯定なのか不鮮明な印象を抱きました。まあ宗教なんてのはそんなもんだと作者は言いたかったのかも知れませんね。 聖水は、これもまた隠れキリシタン系の話で、主人公は頑なに宗教や邪教を否定している印象を最後まで受けました。死に直面した父親が、実は愛する母親を心の中でどこか憎んでいた。という爆弾発言には驚きと共に、愛情の影に潜む憎悪というものの存在を考えさせられます。邪教にはまり、狂いだすおばちゃん。侵食が始まってる町。邪教による崩壊前夜といった感じの作品です。 なおこの作品は ジェロニモの十字架 【第80回(1995年)文學界新人賞】 聖水 【第124回(2000年下半期)芥川龍之介賞】受賞作

  • 芥川賞受賞の「聖水」を含む短編4作品

    著者は現役で今も長崎市役所勤務とのこと 本書に収録されている4作品の内の3つは長崎が舞台で1つは熊本というのも、そうった事情からだろうか 個人的に長崎は何度か訪れた場所で、文章に書かれる風景が、その景色を思い出させた・・ 芥川賞をとった作品よりデビュー作の「ジェロニモの十字架」の方が面白かったかし、それとりも「泥海の兄弟」の方がよかったかも・・

  • 「信仰するということ」

    『文學界』2015年9月号に、青来有一(せいらい・ゆういち)の作品「原爆と文学のあいだ」 がある。又吉直樹と羽田圭介が賑やかに注目を集めた「芥川賞」関連作品の陰になって、ひっ そりとその位置を主張していた。この季節はどうしても戦争関連作品が多く掲載され「戦争文 学」、「原爆文学」のジャンルで新聞、雑誌を飾ることになる。青来有一は長崎県出身である が、1958年生まれで当然戦争や原爆は知らない。しかし、同県出身で学徒動員中に被爆した作 家、林京子がいる。青来有一は彼女の存在を意識して原爆について表現するのに気になってし まう、と心情を吐露している。そして、「原爆作家」といわれた三人の作家および作品を紹介 している。原民喜(広島県で被爆)『夏の花』、大田洋子(広島県で帰省中被爆)『屍の街』、 林京子(長崎県で学徒動員中に被爆)『祭りの広場』そのほかである。ここでは各作品をとり あげることが本意ではないが、各作品とも原爆を経験した個人の印象、街の様子などが克明に 描写されている。青来の主旨は、「原爆」と「文学」すなわち「記録」と「芸術」のはざまで 各作家がどのように自分たちの体験や意識を表現していったかを紹介している。 本作品は、第124回芥川賞を受賞している。原爆作品ではない。舞台は、浦山天主堂のド ームが見え、「貝殻を敷き詰めたような市街地」が見える丘である。そこへ引っ越してきた一 家の話である。庭には大きなタイサンボク(泰山木)の木がある。長崎県西彼杵(にしそのぎ) 半島、外海(そとめ)近辺だろう。古くは潜伏キリシタンが隠れ住んだ山里であり、仏壇で「 マリア様と仏様」の像を入れ替えたと云われている村。 作中人物は、昭和三十年生まれの「ぼく」、父俊二、母、妹利恵、父の従兄弟の佐我理、ぼ くのガールフレンドとなるカヤノである。ぼくの視点で物語が進んでいく。なぜか母親の名前 がない。ぼくが内心抱いている母へ「憎しみ」のような感情を読者に意識させているのだろう か。 隠れキリシタンでウノスケ(山村卯之助)と呼ばれたその末裔たち一族が中心である。父は 「大羽ストア」を経営しているが肺の末期がん患者である。ゆくゆくは佐我理が経営している エコショップと合併させ息子のぼくを後継者に考えている。佐我理は「聖水」を販売し儲けて いる。ぼくは佐我理へ信頼がおけない。なぜなら、「奇跡の水」と呼ばれている「聖水」に対 する疑問である。ただの地下水ではないか。ウノスケの血縁に導かれ発見した岩盤から湧き出 る水。佐我理は口の治療ができたという。地元の人たちの聖水に対する信仰も厚い。次に、ウ ノスケの「裏切り」の歴史を宿しているのではないか、ということ。ウノスケは萩に流された が帰郷後、役人と結託して隠れキリシタンを「ウノスケ縛り」という拷問で痛めつけた歴史が あった。佐我理も学生時代、この「ウノスケ縛り」で仲間を裏切った過去をがある。佐我理の 会社のバランスシートも何か怪しい。 一方、血縁者たちが団結しているのは、何百年も口で伝えられ書くことも許されなかった「 オラショ」(もともとラテン語だったらしい)という「祈祷」を唱えることである。素朴で単 調な節回しの唄である。ぼくは「今頃、そんなものを覚えてどうするんですか」と言う。カヤ ノから「信じることができるかどうかです」といさめられる。佐我理が役員会議で「裏切られ」 代表権を失い、苦悶のなかぼくの父は「オラショ」を親族に唄ってもらい、自らも唱和しなが ら死んでいく。 ウノスケの罪の因果「裏切り」が末裔に降りかかった、と言う解釈もできる。「聖水」が今 後どうなるのか分からない。筆者は、この作品で「信仰」について問うているように思う。「 オラショ」という文字に記されることもなく口から口へと伝えられてきた祈祷。いかなる迫害 にあったとしても頑なに伝承してきたもの。ぼくは「伝えられるうちに歪められ、とりとめも なく膨らんで」と言うが、強い信仰がもたらした「オラショ」は純粋そのものだったと思われ る。「聖水」への信仰に、人間のもつ「弱さ」をみながら、ぼくの伝統的な口伝への反抗的な 考え方に対立させて「オラショ」への深い信仰心を浮かび上がらせた作品であろう。 「オラショ」は拷問され死んだ人間の記憶の遺産であり、口伝として語り継がれていくであ ろう。唱える光景も美しく描かれている。また、タイサンボクの木や精霊舟の光景は薄墨の色 彩画を見ているようでもある。そして、愛情や隠された憎しみの心理を、アンジュラスの鐘の 音、爆竹の音、大雨の音などで効果的に描写している。静謐な作品である。

  • ”隠れキリシタン”は今もこのようにして残っているのかもしれないと思わせる 雰囲気

    4篇のうちの「聖水」が芥川賞受賞作ということで読んでみました。 とってもよかったです。 何がって?4篇ともに内容がいいのです。 特に「聖水」 長崎の作者だけに隠れキリシタンの末裔と思われる人々の現実の生活 のことをよく取材して書いています。 ”隠れキリシタン”は今もこのようにして残っているのかもしれないと 思わせる雰囲気を十分に表現しています。 今現在の長崎のカトリック教徒とはどう違うのか? なぞな部分は残っています。 本当はどうなのか? 知りたくもなります。 そこで、青来さんの次なる作品を読んでみたくなります。 手に入りにくいのが難点です。新作を期待しています。

  • 読了後もしばし沈思黙考でした……。

    デビュー作品「ジェロニモの十字架」から、芥川賞受賞作品「聖水」までの四編の短篇。 そのどれもが、重いテーマだが、作者の筆力によって作品世界へ深く誘われるし、作家としての力量を感じさせ、読了した後も心に深く残る。 田中俊廣氏の解説にあるとおり、共通のモチーフは「生きがたい日常と現在を、精神性と心性を保ちながらどのように生きるか、と言うところにある」と同感する。 読了後、主人公を激しく揺さぶった現実から、主人公は立ち上がり、これからどのように生きて行くのかと考えさせられる。もちろん、方向性は作者が示しているわけだが、そこに、主人公の真摯な生きることへの執着というか強かさが感じられ、決して未来は暗くないと思わせられる。 すごい作品群だなぁと、思う。

  • 昭和の古い文学の残滓

    約十年前の芥川賞受賞作だが、もっと昔のバブル以前の小説のように感じた。それくらいに古臭い。もって回った語り口に、いちいち古臭い比喩の連続。そして扱われるテーマは、隠れキリシタン、地方の習俗、性欲と自らのエゴイズム、原爆、逃れられない血の繋がり…。戦後文学が散々取り上げて手垢にまみれたテーマを、何の新しさもなく持ち出してくることに今更意味を見出だせない。昭和の作家たちが二十世紀最後に選んだ、昭和文学の残滓のような芥川賞受賞作。

  • 緊張感、閉塞感、臨場感

    ー はじめに宗教ありき、なのか、人々の求めが宗教を生み出すのか。ー 「聖水」を読み始めた時、私には舞台となる地域に対する知識は全くなかった。 キリスト教、隠れキリシタンなどという言葉すら、文中にあっても実感が湧かなかった。 真面目に読まなかったからということではない。 特定の宗教に関して書かれているというより、宗教という概念をテーマにしている作品と捉えたからだ。 登場人物たちのそれぞれに抱える業(で重ければ苦悩?!)や、こじれにこじれた関係や、のっぴきならない状況。 読み進むうちに、読者は完全に引きずり込まれ、喉元まで迫りくる悪気(あっき)に息もできなくなる。 ー 以下は、既成宗教に対して述べるのではないので、誤解なく。 人は、その状況に追い込んだのが自分であると分かっていても、救済を他に求める。 救済を求める対象は、なるべく自分からかけ離れた、不変の、強大な存在である方がいい。 手近にそのような存在がいないのであれば、それに近いものをその存在とみなし、まつり上げ、仕立て上げる… この作品のラストでは、まさに、今この目前で、新たな宗教が一つ誕生したという臨場感に満たされる。 この土地では、昔から、宗教の素地があったのだ。(ここでようやく舞台となった土地柄に思い至る。) そうなれば、話は早い。新教祖となる者が、覚悟を決めさえすればいい。 作品では、はっきりと書かれてはいないが、読み手には、映像が浮かぶほどにはっきりと、その後が予想される。 まったくといっていいほどに、「作者の手法にカンパイ!」なのである。

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