一期一会,さくらの花 (講談社文芸文庫 あF 1)
『さくらの花』は、網野菊の短編小説。裕福な旅館の女将となった義妹の死をめぐり、家族の記憶、病、死生観を、静かで抑制された筆致で描く。
作品情報
さくらの花の淡さに、家族の記憶と死の気配が重なる。
講談社文芸文庫『一期一会 ; さくらの花』に収録が確認できる。作者の自伝的な感覚と、身近な死を見つめるまなざしが重なった作品である。
レビュー要約
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家族をめぐる記憶と死の受け止め方が作品の中心にある。派手な展開よりも、細やかな感情の濃淡で読ませる作品とされる。
書籍情報
- 出版社
- 講談社
- 発売日
- 1993-07-01
- ページ数
- 345ページ
- 言語
- 日本語
- ISBN-13
- 9784061962309
- ISBN-10
- 4061962302
- 価格
- 558 JPY
- カテゴリ
- 本/文学・評論/文芸作品/日本文学
深い感銘、胸にしみる女流作家の代表作八篇歌舞伎の市川団蔵の入水自殺に人生老残の哀しみを見る「一期一会」(読売文学賞)、亡き妹への鎮魂の譜「さくらの花」(芸術選奨)他、私小説の名品至純の味わい
レビュー
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私小説の醍醐味
私小説という言葉は最近あまり見かけなくなった。おそらくあまりに手垢が付いて敬遠されるようになったのだろう。しかし、網野菊の作品を読んで思ったのは、私がいかに私小説好きであるかということだった。私小説という言葉は分が悪い。いかにも身辺の狭隘な世界に拘泥しているような印象を与える。だが、題材的な限定は作品世界の広狭・深浅とは関係がない。たぶん、文学的な感動を覚えるかどうかのみが重要であって、私小説かどうかはどうでもいいことなのだが、世間では私小説と呼ばれている作品から受け取る感動は確かに我が好みの真正面を射抜くものがある。 本書は8つの短編を収める。「二月」は著書16歳の処女作である。処女作にはその後の作家のすべてが凝縮して胚胎しているとよく聞くが、まさにそのような作品であった。主人公の光子は女学校の学生、友達と下校の途中で、みすぼらしいなりの女の待ち伏せに遭う。光子が6歳のとき姦通罪の刑罰を受けて離縁させられた実母であった。女は10年間会っていないわが子に親しげに一方的に話しかける。だが、光子は戸惑い親しげにされるほど心を閉じて冷たくあたる。女の憐憫を誘う哀れさと主人公の肉親の情に揺れ動く心の動きが微細に描かれる。 網野菊(1900(明治33)~1978(昭和53))は、20代の終わりまで実母と義母の4人の母を持ち、母を異にする多くの兄弟姉妹に囲まれた複雑な家族・親族環境で生きた。自身は8年間の結婚生活ののち離婚している。日本女子大英文科を卒業して翻訳にも携わっている。小説を書くことが生きることと直に関わるような切実性を彼女の作品から受け取るのであるが、志賀直哉を文学上の師のみならず人生上の師として仰いだということもこれに関連して納得できる。 「光子」は、2番目の義母の死を題材にする。義母は継子の光子を大事にして可愛がるが、突然豹変して継子いじめのような仕打ちにも出る。子供の光子は翻弄されながらも義母との距離の取り方を学んでいく。22歳になった光子は、義母とも大人の対応ができていて、その死に際して継子という立場から解放されて純粋に悲しめると思っていた。しかし、「母の生前以上に自分は今継子らしい考えにとらえられているのである。そう思って光子は泣くにも泣かれないような悲しみを感じた」。この悲しみは人であることの基底へ降りていく。 「金の棺」は、遠縁の夫婦の男女と主人公のけい子との三角関係を描く。男は自死し女は病死する。三者間の微妙な関係の中で、けい子があらわにする心情の冷徹な描写が心にくいこむ。 「さくらの花」は、母違いの妹がまだ40代の若い死の床にあって、主人公のよし子は見舞をくりかえし親族が集う。よし子は裕福な旅館の跡継ぎに嫁入りし、兄弟姉妹の間では恵まれた境遇にある。妹は少し横柄で派手好きであり、その反対の性格であるよし子。病室でもよし子は妹とすれ違うもどかしさを感じながら、妹への思いを深めていく。 「一期一会」は、84歳の八世市川団蔵が歌舞伎界を引退した後、四国巡礼を果たし帰途の瀬戸内海に投身自殺した事件をめぐって作家の思いをつづった作品である。八世団蔵は役者人生をやり遂げたが、幼くして生母と生き別れ性格が生真面目で「花がない」と言われ続けた。作家はこれらのことに自分との共通性を見て、この役者に関心を抱いていた。自死のニュースを聞き、声を上げて泣く。資料を取り寄せて一か月の四国巡礼を想像理に追体験する。自らの務めを果たし終え後患の憂いない上での覚悟の死であったとはいえ、自らの生を絶つという選択は悲しい。晩年近い作家には団蔵の胸中が手に取るがようにわかるのだろうか。満腔の悲しみを噛みしめるのである。 作家が生きた戦前の環境は、家制度があり女性の社会的な権利や自由も制約されていた。この時代性故の不幸や苦しみが、作品にも刻印されているだろう。しかし、それのみには帰せぬ普遍性があって、ままならない人と人の関係の中でそれでも人とのつながりを求め関係の中でしか生きていけない人の姿が鮮烈に焼きつけられる。 たしかに私たちは、密度の濃い湿潤な人間関係を厭って、「個人主義」のドライな生き方に憧れる。これには十分な理由はあるのだが、また一方で人と人の関わりが希薄な社会になったことも認めざるを得ない。網野菊の小説に惹かれるのは、故郷を捨てて帰れない人間が、望郷の思いを抱くのに似ているかもしれない。
関連する文学賞
- 芸術選奨文部科学大臣賞 第12回(1962年) ・受賞
- 女流文学賞 第1回(1962年) ・受賞